50周年記念誌“PRIDE”より

KokusaiTourist2008-01-16

阪神・淡路大震災を社員が一丸となり乗り越え、再生を果たした軌跡
 その1 プロローグ


 ふたたび1月17日が巡ってきました。わたしたちは、あの大震災を乗り越えて昨年5月創業50周年を迎えました。50年の歴史の検証の中で、震災被災経験と全国の皆様の励ましと社員一丸となっての“負けてたまるか!”の不屈の『たたかい』こそが、【まちの旅行会社が50年間存続できた理由(わけ)】の一つとして50周年記念誌で、その貴重な記録を明らかにし後生にも伝えようとしました。13回目の1・17を迎えるにあたり、犠牲になられた一人ひとりの大切ないのちに謹んで追悼の意を表するとともに、お世話になった全国の皆様に改めて御礼申し上げつつ、わたしたちの“震災の記録”をご紹介させていただきます。


〔1月17日〕
 カーラジオ震源地や元町の状況を聞いた松岡は、六時半過ぎ家を出て会社へ向かう。途中、深江や魚崎でケガ人を病院に運ぶ。大混乱の道を三時間かけて到着。
 元町駅前ビルは無事?ではあったものの、四階事務所のドアは、中の机などが邪魔をして開けることができない。仕方なく道路側の窓から中へ。内部は机、キャビネット、パソコン、資料などがメチャメチャに散乱し手のつけようの無い状態であった。
 松岡は、長蛇の列の公衆電話からやっとのことで枚方市の京阪営業所に本社の状況を報告。本社機能を京阪に移すため、予約「原票」だけをとりあえず本社から復路は七時間かかって自宅に持ち帰る。
 入れ違いで、桝本一夫、堤茂が順次到着。「就業については会社から改めて連絡する。それまでの間は各自自宅待機とし、生活復旧にあたること。」と松岡がドアに貼りだした通知を目にする。
駅周辺には大きく損壊したり危険な状態に傾いているビルもあった。元町付近は火災の発生は免れたが、電気・ガス水道などは不通


〔京阪営業所〕
 17日、本社の様子が分からず不安に駆られた岩渕充我子、大村圭子、富田秀信の三人がつながらない電話で必死に社員の安否を確認、五名が確認とれず。
 翌18日、松岡は甲東園の自宅近くの友人宅に避難中の小川猛に会って無事を確認。午後二時、阪急西宮北口駅で、京阪営業所の富田に原票を手渡し、差し入れ受け取る。ここから西は不通で北口駅は大混雑、群衆にもまれお互いを探し出し手渡すだけが精一杯。
 19日、松岡、京阪営業所へ。本社機能の京阪への移転を受入側施設へファックス、見舞い電話が相次ぐ。持ち込まれた原票をもとに手分けしてお客様にお見舞いの電話を入れる。岩渕は、引っ越しで一時空き家であった自分の家を、陣頭指揮に必要だと、松岡に提供。
 21日から、大村は大阪の仕事で添乗に、富田は京都ピースランナーズの総会に出席。震災直後から京阪は稼動した。京阪営業所の存在は、営業面でも、また被災社員を励ます意味でも大きな役割を果たした。


〔本社のかたづけと相互の支援〕
 桝本は一九日の深夜を駈けて神戸へ、避難中の七条結雄を見舞い食料を差し入れ。20日昼には、熊元博、安野靖が事務所で後かたづけ始める。
翌21日、松岡と森本克博は、車で猪名川、三田経由で本社へ、この日も後かたづけをしていた山口初美、熊元、安野と合流。
実家に戻っていた山口は、七条にマンション提供を申し出る。新婦人兵庫県本部の伊藤会長の依頼を受け、堤、菊池寿人が一ヶ月の間、輸送などに協力。
この日、ようやく本社の電話開通。その頃、本社社員用の救援物資が京阪に集結していた。