ペルー

2月1日から10日までのペルーツァーに参加された楠田るみ様から
“ペルー紀行”が寄せられましたので3回に分けてお届けさせていただきます。


その3 最終回 ペルーで暮らす日本人たち

戦前の日本。貧農の次男や3男たちが日本では食っていけない、と南米に夢を託し、移民する道を選んだ。戦後も、銃剣とブルドーザーで土地を奪われた沖縄の人たち、広島、長崎で被爆し差別から逃れて移民を選んだ人たちが暮らしている。(もちろんそれ以外の人もたくさんいる)

彼らの多くは戦争でつらい体験をした人たちだ。戦争中はペルーは連合国側(アメリカ側)についたため、日本人は迫害を受けた。日本語を使うことは禁止された。だから日本語を話せない二世たちが多いという。ペルーの日本人協会の中で今、広島、長崎、沖縄県人たちが中心になって、日本の憲法9条を守ろうと頑張っているというのだ。多くは80歳代になっている。


自分たちがどんなに戦争で苦労したか、二度と戦争はしてはならない、と日本人学校などに出向いて語っている。戦争体験者のおじい、おばぁを若い2世、3世たちがサポートしているという。彼らは、沖縄での集団自決の記述が軍隊の関与がなかったとの理由で教科書から削除されたことに怒り、日本大使館に抗議のデモをした。また、ペルー地震が起きた年には、天皇誕生日パーティをとりやめ、その費用を被災者救援に当てるようにとの署名を集めて、日本大使館に届けたが、にべもなく「これまで続いてきたものは取りやめることはできない」と拒否された。


ペルーで暮らす日本人たちは、節分や、ひな祭りや、端午の節句や、七夕祭りなど日本の行事を大切にしている。梅干もつくる。ガイドさんはお隣の沖縄出身のおばあさんに教わって漬けたという自家製の梅干を持ってきてくれた。日本の味だった。ガイドさんはその1世の沖縄出身のおばあさん(80歳ぐらい)からいろんなことを教わり、仕事に出るときには子どもの面倒も見てもらうそうだ。隣近所助け合うのがペルーでは当たり前。


ペルー人は貧しいが、日本で起きている親が子どもを殺したり、子どもが親を殺したりという事件は考えられない、とガイドは悲しい顔をした。ペルーの人たちは、昔の日本の長屋のように、隣の人が気になって気になってしかたなく、世話焼きでおせっかいな人たちだそうだ。地球の反対側で暮らす人たちもみな同じ人間だと言うことだ。(R.KUSUDA)

楠田様ありがとうございました。