“ドクター安達

KokusaiTourist2010-05-20

○○○○○○のNPTレポート”その4
大阪民医連社会保障平和委員会委員長で茨木診療所所長、西淀病院副院長の安達克郎様からニューヨークでのNPT再検討会議参加レポートが寄せられました。ご了解をいただき、一部編集のうえ、数回に分けてブログに掲載させていただきます。
日本原水協ニューヨーク派遣団
NPT再検討会議 in New York and San Francisco in 2010
2010年5月1日(土)〜8日(土)
茨木診療所所長、西淀病院副院長 安達 克郎
5日目
 2010年5月5日(水) ニューヨーク → サンフランシスコへ
 今日はサンフランシスコに移動するので5時起き。6:00にホテルを出発し、6:50 JFK空港着。
9:18 離陸、6時間45分のフライトで16:40サンフランシスコに到着。現地時間は3時間戻し、13:30に時計を合わす。日本とは16時間の時差だ(遅れている)。サンフランシスコでは、全労連の国際局長F氏が通訳・案内のために同伴してくれることになった。
まずはサンフランシスコの市内観光へ
 現地時間14:30 にバスに乗車、サンフランシスコの市内観光へ。15:00 サンフランシスコ一番の繁華街にあたるユニオン・スクエアで下車、写真撮影。中心街、チャイナタウン、イタリア街などを通って、フィッシャマンズ・ウオーフで小休憩。16:35 ゴールデンゲートブリッジまで行って記念撮影。サンフランシスコが一望に見渡せる展望台に寄って、18:15 ウイットコムホテルに到着。
夜はオークランド市で日系人の人たちと交流会
 夜はオークランド市で日系人の集まるパーテイがあるのでLコース38人中26人が出かける。19時頃ホテル前のバート(ba)という地下鉄の1種に乗り、ベイブリッジの下をくぐり、対岸のオークランド市Lake Meritte で下車。駅を出ると中国人のグループが中国将棋をさしている。案内パンフレットに中国語のものがあったので中国人もけっこう住んでいるようだ。
 現地の人たち数人が車で迎えに来て運んでくれる。カラン西本さんがオーナーという芸術家の集まるスタジオのようなところだった。わざわざ私たちのために手作りの料理と豊富なドリンクで歓迎してくれた。
ひとしきり飲んで食べた後交流会が始まる。わが方はLコースのO団長があいさつ、現地側はクレイグ松崎というアメリカフレンズ奉仕委員会サンフランシスコ支部と親交のある人だ。彼は2年前に原水爆禁止世界大会に参加したことがあり、その後3〜4回日本に来たことがあるそうだ。沖縄出身の3世ウエスリー・サンフランシスコ州立大学准教授が日本語で解説を加える。彼は10年間日本に住んだことがあるという。
 さて現地の人にぜひお話したい人はというと、次々に手が挙がる。東京のYMさんは被爆2世、05年の再検討会議にも参加したが被爆者本人がもう高齢で来ることができず、彼らが存命の間に核兵器のない世界の実現に踏み出せるよう頑張りたいと。大阪のOYさんは国鉄労働者、1983年に国鉄を解雇され清算事業団に、日本の政治革新と核兵器のない世界をめざし頑張りたいと。埼玉のOBさんは日本で9条の会が7500以上組織されているが、
埼玉で憲法9条を守るの一点でマスコミ・文化人9条の会を組織し350名以上の方が参加している、ここの人たちが芸術・文化の造詣の深い人なのでひとこと言いたかったと。長崎のAYさん去年の秋は署名が400人くらいしか集まっていなかったので年賀状などで訴えると署名の輪が広がり、7438人の署名を集めて持ってきたこと、こんなに署名が集まったので核兵器はなくせると確信したと。京都の久永淑さんは2枚のタペストリーに200人以上の寄せ書きを書いてもらい参加したこと、などの発言があった。
 現地側はウエスリー准教授が進行役。彼は、10年近く日本に住んだがこちらに来て情報がなかなか手に入らず自分のアイデンティティが課題と。TMさんという3世は父親が第2次世界大戦中は収容所に入れられていたと教えてくれた。ウクレレ演奏は川村やすえさん、小学校1年生の娘さんはお母さんの腕にしがみついて恥ずかしそうにしている。彼女に日本語で話しかけると、日本人学校アメリカンスクールに通っている、英語と日本語が話せる、そしてスペイン語もちょっと話せるの、と答えてくれた。
 エスリー準教授、オーナーで何でも屋のカラン西本さん、太鼓うちのクレイグ松崎さんの3人が沖縄の歌を披露してくれる。かなしい夜?だったかな、みんなで輪になって沖縄舞踊を踊る。OBさんの踊りが沖縄風に見えたが、他の人はほとんど阿波踊り。そして島唄をみんなで合唱。また、NMさんが日本でいえば尺八のようなネイティブアメリカンフルートでネイティブインデアンの曲を演奏してくれた。最後にみんなで輪になって We shall overcome を合唱、そして日本側は「がんばろう」で締めくくる。はじめは、疲れているので1時間くらいで引き上げようとみんな言っていたのに、楽しい交流の夜はたちまち過ぎ、ホテルに戻ったのは23:00だった。