「バックミラーで未来を見つめる」

 臨済宗妙心寺派龍澤寺住職の水田全一様定期刊行の『山家妄想』から転載
 西宮市津門稲荷町にある「シャロンの花イエスキリスト教会」の日本キリスト教団 兵庫教区正牧師 久保恵三郎さんから表題の著書を贈られた。久保さんは電通マンを定年で辞めた後同志社大学で神学を修め牧師となられた。一方、さきに早稲田大学で映画演劇専攻、松竹京都撮影所で俳優になり、「二等兵物語」で伴淳やアチャコと共演したこともあると、巻頭に紹介されている。
 「バックミラーで未来を見つめる」とは「新中国」の建国60周年=還暦を「革新的に表現して、一衣帯水の国;永遠の日中友好を語り続けたい」との想いからの表題だという。久保さんは呉子牛監督の映画「南京1937」の松井石根陸軍大将役に応募して採用、1995年2月中国にわたり撮影に参加する。到着4日後には虐殺シーンの撮影に出くわす。自身も「遠くからビデオで撮影をしていましたから、死体の中に明らかに支那軍捕虜でない女性の無念そうな顔が見えました。ますますのリアリティがそこにありました。」と記す。
 その「リアリティ」はロケの現場・草鞋峡こそが、1937年の大虐殺の現場そのものであったことによって高められたのであった。
久保さんは上海派遣軍司令官松井石根役、彼は呉子牛監督が「教養ある仏教徒でした」というとおり、「『興亜観音教』を主催するほどの仏教徒」であったことを記し、この人物が「なぜ大虐殺、戦犯、処刑の道を歩んだか」を追求し、その道程を演じきったのである。
 この冊子では松井自身のことばが紹介されている。
「今回の事変は支那民衆を相手にしているのではなく、蒋介石政権打倒が目的である。このことを考慮して小国民の教育をせねばならない」(支那人を皆殺しにしてくれという手紙に)、「支那幾千万の無辜の民、その政府に強制されて心なく戦場の露と消えたる幾十万支那将兵に対しても少なからず惻隠の情を」という一方で、「南京は支那の首都である。わが軍が厳しい処置をとるならば、支那全体の抗日運動に徹底的な大打撃をあたえることになる」「慈悲をかけるには及ばんのだ。すべて消さねばならんのだ」と見得を切る姿が紹介される。
 「普通の教養ある人」松井石根とは「こうした虚しさの中にある人間の実の姿」であり、それを呉監督は描きたかったのではないかと、久保さんは理解し演じたのである。
 「軍人が混じっていても構わぬ、直ちに解放せよ」と命じたにもかかわらず、虐殺がおこなわれた「下関」を視察して「ただ泣くだけであった」松井石根日本兵支那兵の血を吸った土で焼いた陶製の観音像をつくり、彼我の霊を弔った松井石根大将は、絞首刑を宣告され戦犯として果てた。
 出番の来るたびに「ワー、えらい役を引き受けてしもた」と身もだえしたという久保さんは、早乙女愛さんのメッセージを引用して「ただ全人類に向かって永遠に戦争しないように!と精魂こめて言うつもりで、この映画の撮影に参加したのです」と語っているが、随所にちりばめられた聖書のことばは久保さんの言う「バック・ツー・ザ・フューチュアー」のためであったと重く迫ってくる。
 「虚しさの中にある人間の実の姿」は「虚実を超えた真理」に照らすとき現れてくるものではないか。「さとり」とも「啓示」とも呼ばれるものによって体感できるのではないか。
 久保さんの言われることを、そのように受け取ることは誤りだろうか。(2010/10/24)
(注)松井石根大将を含む処刑されたA級戦犯は、昭和殉難者と呼ばれて靖国神社に合祀されました。
また松井大将が建立した興亜観音は三河湾を望む三ケ根山上の「礼拝山興亜観音」に安置されています。確かに、敵味方を区別せず平等に供養する「怨親平等」の気持ちで作られたものですが、旧右翼の後継の日本青年社が秘かに、A級戦犯処刑後の遺体を火葬した火葬場から遺骨を手に入れ、ここに埋葬し「殉国七士廟」と呼んでいます。
吉田 茂の追悼辞を刻んだ石碑も建てられ、数々の各種慰霊碑も建立され、一種の右翼的勢力の聖地となっているようです。
複雑な気持ちです。