原発と沖縄

山家妄想
高砂市 臨済宗龍澤寺住職水田全一師の随筆を抜粋紹介します。
前略
事故に至る以前の保守・点検作業でも、許容被爆量に縛られての作業は人海作戦を必要とする。膨大な作業員が必要である。危険な作業に従事する人員の調達がワーキングプアーに依存していることは現在の常識である。
福島の被曝事故でも三名の被爆者は、下請けと孫請けの労働者であった。大阪愛隣地区で募集された運転手が、契約時の勤務地とは違う原発敷地内で働かされていたことも判明した。
このような原発労働者の調達地の一つに沖縄がある。原発そのものが基地を押し付けられている沖縄の犠牲の上に立っているといえる事実がある。
琉球朝日放送がフォトジャーナリスト樋口健二さんに取材している。(原発点検労働者の実態 110511p.18:45)
「沖縄に原子力発電所はありませんが、出稼ぎ労働者を数多く原発に送り込んできた歴史があります。2005年には県内の50代の男性が原発で被曝して死亡し、労働災害が認定されたケースもあります。沖縄と原発がどう関わってきたのか。」
講演会で語る樋口健二さん「原発労働者たちの話を聞くと、ノルマ仕事ばっかりだって。ノルマだからこれをやらなかったら給料がもらえない。仕方ないからマスクをはずすんだって。一回くらいならいいだろうって何回も何回も繰り返していくと、内部被曝という恐ろしい現実が待ってる」
放射能で汚染された現場で働く「原発労働者」たち。被曝量の限度示すアラームが鳴ると交代し、人海戦術で作業します。内部に入るのはほとんどが下請け、孫請けの労働者です。
樋口さんは、原発で働いた人の累計は200万人、そのうち被曝した人は50万人を超すと見ています。
講演を聞きにきたこの女性は 6年前、最愛の夫を亡くしました。放射能漏れを調べる仕事で被爆したのです。医療事務をしていた末子さんは放射線の怖さを知っていたため原発の仕事には最初から大反対でした。 
病名は「悪性リンパ腫」 原発の仕事をして6年。53歳の若さで亡くなったのです。
末子さん「もう、規定の3倍以上浴びてたみたいなんですよね、うちの主人は。それに私びっくりして。は?って。だったらもう命はないねって」「ほんとに、あの若さはどこに行ったかねというくらい1年間で70か80歳くらいの年齢に見えたんで」「一日でも、一日でもね長く、主人のそばにいたかったんですけどね(涙)」
これだけの放射線を浴びながら、当初、ご主人正さんの労災は認められませんでした。2005年の段階で、原発の労災認定は全国でたったの6件。でも入院費用は軽く1千万超えていました。末子さんは、泣き寝入りはできないと全国で署名運動を展開。3年後、労災を勝ち取ったのです。
というのである。
福島原発で作られた電気が東京へ送られて、中央の豊かな生活を支えてきていた事実が、このたびの事故によって全国民に明らかにされた。
沖縄戦の犠牲に加えて、戦後アメリカ軍占領下での犠牲は本土復帰以降も依然として継続してきた。その犠牲の上に本土の戦後「繁栄」は築かれてきた。その犠牲に甘んじることを拒否し、沖縄にも日本国憲法の原則を貫徹するための意志が、普天間基地拒否の総意には示されている。この総意にわたくしたちはいまこそ応えることが求められている。
それは、沖縄と並び東北も含め日本の「地方」を中央の犠牲にすることなく、「うましふるさと」として甦えらせることにつながる。そうしてこそほんとうに日本の再生がなされるのではないか。
原発事故はこのことを教えていると思うのである。(2011/05/23)