「政教分離」の壁

高砂市  水田全一住職「山家妄想」No.119 2011.09.01より  
五月十五日付神戸新聞。「東日本大震災の被災地で、身元不明の犠牲者の供養にどこまで関与すべきか、自治体が苦慮している。宗教的色彩が避けられず、憲法が定める「政教分離」の原則が壁に」なっているというのだ。
改めて憲法第二十条を読む。そこには、
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。
何人も、宗教上の行為、祝典、儀式または行事に参加することを強制されない。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。とある。
この条文は、身元不明の死骸あるいは遺骨を自治体が収容した場合、いかなるかたちであろうとも宗教的色彩があれば、供養そのものをしてはいけないと読むことを要求しているのだろうか。仙台市は「仏教会からの読経の申し入れ」を「市職員と宗教者が同席する」ことはこの条文に反すると断って、「プレハブの建物の中にひっそりと」二十四人の遺骨を置いたという。ただ「せめてもと簡素な祭壇を設けて線香を上げた」のは宗教行為ではないらしい。多賀城市は「無償で場所の提供を申し出た寺の本堂に仮安置している」が、「職員の焼香も、香炉の設置も自粛している」そうだ。
仙台市の生活衛生課長さんは「理詰めでは全部全部許されなくなる。どこまでかたくなになるべきなのか」と「苦しい胸の内を明か」されたそうだが、京都大の大石真教授が言われるように「一種の過剰反応」ではないか。
だいたい憲法の条文を素直に読めば、「読経」を許可することが「特権を与えること」になったりするはずはなく、「市営の納骨堂がない」くせに、「提供を申し出た寺の本堂に仮安置する」ことに「苦渋の決断」を要したりするだろうか。「何人も、宗教上の行為、・・・行事に参加することを強制されない」との条文は、まさか読経されたり焼香されたりすることによって、死者が特定の宗教儀式に参加を強制されていると強弁するのでもあるまい(遺族の意思が尊重されねばならないのは勿論だが、いまは身元不明である)。
かれらが「壁」と考えているものを突き詰めれば、「いかなる宗教活動もしてはならない」のだから、公務員は合掌し頭を下げて礼拝するなどもっての外というところまで、行き着くことになる。
なくなった人を悼み、その死に対してわが心のまことをささげる、それが供養の本質である。自らの信じるところにしたがって供養のかたちをあらわす、たとえ、そのかたちが死者の信じるかたちと相違していたとしても、その心のまことは通じるのではないか。
まこととまことの交感があれば、「政教分離の壁」などという挟雑物の入りこむ隙間はなくなるであろう。かつてない規模の非業の死に直面して、わが哀悼のこころを捧げる、そのかたちを咎める人があろうとも、それはそれでよいではないか。
この非常時に際して「壁」を持ち出す者のさかしら口こそ、問われなければならぬと思うのである。(2011/06/06)