ドクター安達の沖縄平和旅行記 その3

KokusaiTourist2012-03-05


荒崎海岸へ
死の彷徨をした山城丘陵を超えて荒崎海岸へ。ここには、平良教頭率いるグループが自決した「ひめゆり学徒散華の跡」の碑石がある。14:40バスから降りて、サトウキビ畑を横切って歩いていく。道脇には生徒たちが身を隠したというとげのあるアダンの木。蝶のやって来るセンダングサランタナの花も咲いている。今日は曇りで蝶影はまったくない。荒崎海岸は隆起石灰岩でできていて、海は荒くサーファーの集まる海岸だ。向こうに摩文仁の丘が見える。ごつごつした道を歩き、碑石にたどり着く。
海には米軍の小船がいっぱい、陸からは米軍の兵士が投降を呼びかけながら迫って来る。一人の兵士が投降しようと歩いて行ったら、日本兵が後ろからその兵隊を撃った。それをきっかけに米軍の反撃が始まる。海は血で真っ赤に染まっていたという。生きて捕囚の身になることなかれという戦陣訓を教育されていた10人のひめゆり学徒はもうこれまでと、3個の手りゅう弾で自決した。そこはほんの小さなガマだった。自決を思いとどまったグループもあるそうだ。その理由はただ、一目お母さんに会ってからでないと死ねない、という望みだったそうだ。みんなで黙祷する。

糸数分室(アブチラガマ)へ
15:40バスに乗車し、16:10糸数分室(アブラチガマ)へ。アブとは深い縦の洞窟、チラとは崖、ガマとは鍾乳洞のことで、沖縄本島中南部にはこのようなガマがたくさんある。もともとは糸数部落の避難壕だったが、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。
4月末、軍医3名、看護婦3名、衛生兵数名、ひめゆり学徒隊16名が南原風から移動してきた。全長270mのガマは、多いときで600人〜1000人の負傷兵や病気の兵の治療に当たったという。

受付でヘルメットと懐中電灯を受け取り、入口を降りて行く。降りて右手の奥の方が隔離部屋で、暗くしてあり、脳症患者と破傷風患者の収容をしていた。洞内の照明は撤去され、ろうそくと空気穴からの明かりだけだったので暗かった。ある学徒は、暗くて見えなかったから、この地獄のような病棟で生きていけたと言っている。手術といえば、壊疽を起こした手足を切断するだけで、切断した手足を洞外に運んだり、重症患者の傷にわいた蛆を取るのも学徒の仕事の一つだった。

5月末には、撤退命令により、アブラチガマから患者と学徒隊は糸満市の第一外科壕へ移動していく。歩けない患者百数十名と糧秣監視兵数人が残り、患者には自決用に青酸カリの袋が各人に配布された。
その後は、糸数の住民と、行き残り兵、監視兵の雑居状態となり、日に日に亡くなっていく負傷兵、監視兵と避難民とのトラブル、米軍の攻撃など、数々の悲惨な出来事が起きたという。
壕に残った人たちの中には、米軍の投降勧告に耳をかさず、終戦後県庁の職員が戦争は終わったと告げに来てやっと出てきた者もいたそうだ。

 壕を出て帰る道すがら、宮川さんがゲットウの葉っぱを千切って、匂いを嗅ぐ。いい香りがするので好きなのだそうだ。ゲットウは沖縄特産種の蝶オオシロモンセセリの食草だ。抗酸化作用があり、石鹸や化粧水に使われているとのこと。
ホテルへ向かう
17:00バスに乗りホテルに向かう。今までは車中は平和ガイドの宮川さんがマイクを握っていたが、ここでやっとバスガイドの伊波さんがマイクを握る。沖縄ガイド。サトウキビから作られる黒糖は、ビタミンCやミネラルをふんだんに含み、恋の味なのだそうだ。ここで一曲、お富さんのメロデイーで「黒糖〜恋の味」を歌ってくれる。ゲットウ月桃)は、旧暦12月8日の祝日にお餅を包む葉っぱとして使われているとのこと。日本のちまきのようなものか? そして「ゲットウの花」という歌も披露、この歌は「ガマ」という映画の中で歌われているものだとのこと。
17:45レインボーホテルに到着。レインボーホテルは、県庁の向かい、那覇民主診療所の真ん前にあった。各自荷物を自室に置いて、ホテルの歓会の間で、ひめゆり同窓会の宮城喜久子さんのお話を聞く。続く