ドクター安達の沖縄平和旅行記 その4

KokusaiTourist2012-03-07

       

宮城喜久子さんのお話 
18:30部屋に入るともう宮城さんが待機されていた。すぐにお話が始まる。以下お話の概要を記す。

若い人が多くてうれしいです。私は、荒崎海岸で米軍に収容されました。収容所は、掘っ立て小屋、収容所では兵隊服を着ていた。いちばんつらかったのは夜の声。「足がない」、「お母さん、お母さん」と叫ぶ声。4つの収容所を転々としたが、4つ目の収容所で母に会えた。収容所生活は1年半だった。母は、「生きていた、生きていた」と喜んでくれた。しかし戦後30年間、ひめゆりの塔に行っていなかった。30年ぶりに慰霊祭に参加したら、亡くなった方のお母さんから、「うちの娘は死んだと思っていない」などの言葉をかけられ、つらくてまた10年間沈黙を守っていた。

40年後、補修されて2〜3年前から平和教育に利用されていた、南風原陸軍病院の24壕に行ってみた。中に入って歩いてみるとバリッバリッと骨を踏む音がする。頭蓋骨や大腿骨がいっぱいあった。頭蓋骨は私を睨んでいるように思えた。大事な遺骨が放たらかされたままになっていた。遺骨収集のことで厚生省に交渉に行ったら、担当の人は沖縄戦のことを知らず、びっくりしていた。27年前、政府が遺骨収容を始めた。20万人の遺骨がある。どれくらいかかるでしょうか? 2年前にも27遺体が収容された。

みなさん、ひめゆり資料館で赤い筆箱見ました? あれは仲里光子さんのもの(仲里さんは伊原第三外科豪でガス弾を投下され死亡)。仲里さんのお母さんは、「私の言う事を聞いていたら、死ななくてよかったのに」と言っていた。当時、ひめゆり学徒として動員されようとした時、彼女のお母さんは、家族と一緒に行動することを勧めたのですが、彼女は「私はひめゆり学徒です」と答えて学徒動員に行ったのです。当時はみんな国のために頑張れと教育されてきた。

弁当箱。あれは新垣先生のもの(新垣先生も伊原第三外科豪のガス弾攻撃により死亡)。第三外科豪に入った4日後に全員が亡くなりました。当時、生徒を戦場に連れて行かせたくないと言う先生もいましたが、その先生はすぐに戦場に送られました。国の言うことを聞かなければ生きていけなかった。本音と建前を区別しなければならなかった。

私は、証言しなければまた同じことをくり返すと思った。現在12人の証言者がいます。27年前から始めて、全国からお金が集まって資料館ができました。日本人の助け合い精神を感じました。東日本大震災でもそうでしたでしょう。運営が大変なんですが、うまくできています。国・県からお金は貰わないでおこうと思った。いろいろ口出しされるから。真実を伝えようと思った。職員15名、みんな一生懸命勉強しています。

私は13歳で安里にあったひめゆり学院に入った。私服はだめで制服があった。普通の高校生だった。
米軍上陸前からしたたかな空爆があった。ひめゆり学院も大分壊されていた。昭和20年3月23日、教師から「これから戦場に行きます」と言われると、全員が「はい!」と言った。10年間皇民化教育を受けていたから。その当時学院は全寮制で、親に会ったのは前年の夏休みだった。南風原は学校から5km、首里から4kmのところにあった。私たちは、米艦船1500隻が包囲し艦砲射撃がある中を歩いて行った。

 病院にも爆弾が落ちる。みんな「どうして?」と思った。戦争でも病院は爆撃してはいけないことになっているのに。初めて戦争を見た。戦争の現場は思っていたのとまるで違う。みんなショックでした。3年生の豪にガス弾が放り込まれ、27名中5名が亡くなった。教頭が、「国際法など通じないんだ」と叫んだ。50万人の米兵(当時の沖縄の人口と同じ)が侵攻してきた。首里城のすぐ傍に日本軍司令部をつくっていたので、600年の歴史を持つ首里城が破壊された。京都や奈良は爆撃されなかったのに。

 16歳の首里高4年の比嘉くんが爆撃を受け腕がぶらぶらの状態でやってきた。彼は、「腕を取らないで下さい。腕が亡くなったら男は生きていけません」と頼んだが、軍医は切り落とした。彼は、戦後も生きて、よく勉強して筑波大の教授になった。

40豪の入り口から叫び声「痛い!痛い!」「助けてくれ」という声、声、声。「手がない!」、「足がない!」。 私たちは怖くて震え上がって何もできなかった。「お前たち、ここは戦場だ。お前達は看護要員だ。怖がっていてどうする」と怒鳴られた。患者は3000名を超えた。「痛いよう!苦しいよう!水、水」といいながら動かなくなる。「水をやったらだめ」と言われていた。糸数豪は臭いがひどかった。血、糞便、膿の臭い。いちいち口を押さえるなと言われた。「黙れ、お前達は帝国軍人だろ!」と言ったら、兵隊はみんな黙った。「戦場で蛆がわくのは当然だ」と軍人から言われた。24時間砲弾の音が響く。蛆が傷口を食べる音が聞こえる。私たちは東京から専門の画家の方に頼んで、絵本「ひめゆり」(2011年6月発行)をつくりました。傷口を食べている蛆がとても小さく書いてあるので、もっともっと大きかったなどと注文をつけ、その場面を書くのに一日かかりました。絵本自体も作るのに2年間かかりました。今アニメ映画もつくっています。軍医がノコギリで足を切断しているシーンが出てきます。戦争がかっこいいと思っている人に見て欲しい。美化された戦争は悪い結果を生みます。

何もできなった私が大分できるようになった。「臭い。壊疽を起こしている。切断だ。」と軍医が言う。ある日70〜80人が手術場に運ばれてきた。麻酔薬が足らなくなる。患者は痛くて暴れだす。先輩達が押さえつける。筋肉がブツブツと切れる音。骨を切る音。卒倒する生徒。先生が呼ばれて、「君たちの教育はなっていない」と怒られた。私たちは、最後には、切り落とした手足を、この大根どこに捨てますか?と言うようになっていた。戦場では人間が変わっていくんです。夜は死体埋葬です。頭上でヒューヒューと砲弾が飛ぶ音がする中、水汲み、飯あげ、樽を担いで歩いた。飯をこぼしたら人殺し、人殺しと言われた。ボール球くらいのおにぎりがピンポン玉くらいに小さくなっていった。

撤退命令が出て、私たちは伊原に移動した。大雨だった。青酸カリ入りのミルクをつくり、ほとんどの人がそれを飲んで死んだ。16名で1000人の患者をみていた。破傷風患者は一番奥。糸数では脳症患者もたくさんいた。小便飲んで助かった人もいた。戦場に17万人いた。一般住民がたくさん死ぬ、絶対に許せない。

6月10日伊原に着いた。第一外科豪に行った。食べ物は自分達で調達せよと言われた。米軍はサトウキビ畑を火炎放射器で焼き払った。サトウキビは食料になるから。
山城丘陵は機関銃の束。井戸に水を汲みに行く。「お姉ちゃん、水、水・・・」とせがまれた。でも水をあげることはできなかった。
6月17日食べ物を探して第三外科豪に行ったとき、第一外科豪のところで爆発が起こった。行ってみると、「首が飛んだ!足がない!」と口々に泣き叫ぶ先輩がいた。私は耳をふさいでいた。知念さんは両目が飛び出していた。
6月18日突然解散命令が出た。「これから団体行動はできない。今日中に豪から出て行くように」と言われた。

「一発で死にたいね。死ぬことより怪我をするほうが怖いね」と私たちは言い合った。青酸カリのミルクを渡した。私が、「手榴弾で死にたい」と言ったら、○○さんが「お母さんに死ぬまでに一度会いたい」と言った。米軍の乱射で4人が死亡、私はその死体の下で手榴弾を抜こうとしたが、力が入らなくてピンが取れなかった。米兵が、「school girl? school girl?」と話しかけてきた。米兵が3人の先輩を助けた。怪我をした先輩はリンゲル注射などして1年間入院していた。私は米兵から逃げた。そして、10人が手榴弾で自決していたのに出くわした。最後に私は米兵に収容されました。
見ることと体験したことが違う。米兵は「No poison. No poison. Please. Please.」と言って水を飲ませようとする。鬼畜米兵と教えられていたが、米兵は親切だった。今、婦女暴行などで米兵が沖縄に迷惑をかけているが・・・。

教育というのは真実を伝えること。間違ったことを教えてはいけない。今だに悔しい。若い人たちに真実を見る目を学ばさなければならない。16歳で新しい人生を始めた。その後67年間生きた。なぜ生きてこられたのか? それは67年間戦争がなかったからです。勇気を出して平和を作る一人ひとりになってください。平和じゃないと生きられない。みなさんは、今日いろいろなところを回って勉強してきました。今日学んだことを是非周りの方に伝えてください。国策として国民を殺さない日本に。国民一人ひとりが生きていくことが守られてこそ国ができるんです。

19:45予定の1時間を少しオーバーして宮城さんのお話が終る。お話している間ずっと立ちっぱなしだった。座ってくださいと勧めたら、疲れたら自分で座りますからと言っていたが、最後まで立ってお話をされた。疲れを感じないほど話すことに集中していたのだと思う。
夕食交流会
すぐ隣の部屋で19:50頃から夕食交流会。はじめに、沖縄民医連事務局長の比嘉さんが歓迎のあいさつ。1週間前の宜野湾市長戦は残念な結果に終ったが、全国支援をいただき元気をいただいたことにお礼を述べられた。大阪のハシズムとの闘いにエールがおくられた。次いで団長として乾杯の音頭をとり、しばらくは各班テーブルごとに歓談。おなかが一服したところで、各人前に出て、自己紹介と今日の感想、ツアーへの期待や決意を述べる。

また沖縄協同病院職員エイサー隊によるエイサーの披露があり、一緒に踊ってみる。本土の人は様になっていないなあ。

22:00お開き。元気のいい若者たち17〜8人は、月見くんの行きつけの飲み屋に繰りだして大いに交流したようだ。私は、自室に戻って風呂に入り、残った原稿書きの一仕事といきたかったが、睡眠不足のためそのまま眠ってしまった。