音楽と文化の国・ドイツ(上)

全日本民医連グラフ雑誌「いつでも元気」2月号より 文・写真は五味明憲

ライプツィヒは、7世紀にソルブ人の築いた城砦に起源をもち、彼らによってリスプク(菩提樹の地)と名付けられました。やがて、リスプクの名はライプツィヒへと変化し、ヨーロッパ大陸を縦横に貫く通商街道が交差する商都として発展、時代ごとに様々な文化が花開きました。バッハ、メンデルスゾーンシューマンや、ゲーテニーチェ、シラーなど、そうそうたる音楽家や文豪を輩出したことでも有名です、
学問と文化の街
本を開いたようにひときわ高くそびえたつビルは、元ライプツィヒ大学の本校舎、東西ドイツ統一後、ビルは売却され、現在はオフィスビルとして使用されています。
 ライプツィヒ大学は1409年の創立で、ドイツではハイデルブルグ大学に次いで2番目に古くリプニッツやメビウスが教壇に立ち、ゲーテニーチェシューマンなどが学びました。日本人初のドイツ留学医学生、萩原三圭や森林太郎(鴎外)もこの大学の医学部で学んでいます。
 すぐそばに、アウグストゥス広場を挟んで向かい合って建つのは、ゲヴァントハウスとライプツィヒ歌劇場です。ゲヴァントハウスとは、織物(布)会館という意味。1781年の織物見本市の際、こけら落としで演奏したことをきっかけにその名を冠したのがゲヴァントハウス管弦楽団です。
 世界最古のオーケストラでありながら、王宮にも貴族にも司教にも属さず、市民階級による自主運営で、設立そのものは、バッハが存命だった1743年にさかのぼります。「メッセ」(見本市)を中心に、商人など市民階級が主役となって発展してきたことも、ライプツィヒの特徴です。
 ライプツィヒ歌劇場ヴェネチアハンブルグに次ぐヨーロッパで3番目の市立歌劇場として、1693年に誕生。当初から座付きのオーケストラはなく、ゲヴァントハウス管弦楽団が兼任しています。すべての団員がゲヴァントハウスでシンフォニー、歌劇場でオペラ、トーマス協会で宗教曲と、三つのジャンルを日常的に演奏しているのは、世界で唯一このオーケストラだけです。
信仰と「平和の祈り」
中心街の二大協会、トーマス協会とニコライ協会は、ライプツィヒの信仰と音楽の分野で、歴史的に重要な役割を果たしてきました。
 1723年から亡くなる1750年まで、バッハはトーマス協会の音楽監督として活躍しました。音楽監督の仕事は、キリスト教プロテスタント)の礼拝にのっとった演奏を毎週行うことで、作曲から写譜や練習指導、演奏本番までとてもハードな仕事でコピー機もない時代、写譜は弟子や家族を総動員しておこなわれたようです。
 ニコライ協会は、商業の守護聖人・聖ニコラウスに捧げられた協会で、商都ライプツィヒの象徴として市民から手厚い保護を受けてきました。内部は、シュロの木をかたどった列柱がピンクとパステルグリーンに彩られ、明るく美しい。ポルシェ社製のパイプオルガンは五段鍵盤で、ドイツ有数の大きさを誇ります。
 市内で最も古いこの協会は、同時に現代史の舞台でもありました。東ドイツ時代の1982年、毎週月曜日にここで「平和の祈り」が開かれるようになりました。当初参加したのは300人ほどでしたが、言論・政治活動の自由を求める人々によって、規模が拡大、89年10月9日、七万人に膨れあがった参加者は、手に手にローソクの灯を持ち、「主権者はわれわれ人民だ」とデモ行進を行います。東ドイツの最高指導者・ホーネッカーは軍に発砲許可もあたえて弾圧するよう指示しますが、家族や親戚が参加しているかもしれない非暴力のデモに、誰も手を出そうとせず、デモは無事に終了しました。この市民運動はまたたく間に東ドイツ全土に広がり、ベルリンの壁が崩壊したのはちょうど一ヶ月後でした。