フリージャーナリスト西谷文和さんの「人質事件の私的検証」

2015年2月 8日のブログから転載させていただきました。
 フリージャーナリストの後藤健二さん、民間軍事会社経営の湯川遥菜さんが「イスラム国」に囚われ、殺害される事件が起こった。1月20日、「イスラム国」が2人の殺害予告動画をインターネットにアップしてから、日本は大きく揺れた。私はトルコ在住のシリア難民や自由シリア軍の幹部たちに連絡を取りながら、現地情勢を探りつつお二人の救出に向けて、微力ながらも手を打たせていただいた。
たいへん残念な結果になった。湯川さん、後藤さんを惨殺した「イスラム国」には強い憤りを覚えるが、同時に失策続きで救出可能だった後藤さんを結果として救えなかった日本政府にも強い怒りを覚える。以下、この人質事件を検証する。
事件の概要
2014年8月、千葉県出身の民間軍事会社経営、湯川遥菜さんがシリア北部のアレッポ近郊で拘束される。「イスラム国」が拘束時の模様を動画にして発信。「湯川はスパイだ」「処刑する」などというメッセージが流されたが、その後安否は不明になった。
 9月、安倍首相はエジプトを訪問し、「イスラム国への有志連合による空爆を支持する」と発表。湯川さんの身柄がイスラム国の手元にあるのに、いたずらに犯人たちを刺激するようなコメントだった。
 10月末、「湯川さんを救出にいく」としてシリアのラッカ入りをめざした後藤さんが、やはり「イスラム国」に拘束された模様。
 11月、後藤さんの奥さんが外務省に相談。その後、奥さんの元に「イスラム国」側から20億円の身代金を要求するメールが届く。「イスラム国」と奥さんの間で10通ほどのメールやり取りがあった。
 湯川さんが拘束された後で、政府はヨルダンに現地対策本部を置いていたが、この時点で、政府は「イスラム国」との間で、後藤さん解放に向けた交渉を行わなかった。なお、仏やスペインは水面下で身代金などの交渉を行い、人質解放の実績がある。
 12月末、ヨルダン人パイロット、カサースベ中尉が、「イスラム国」を空爆中に撃墜され、捕虜となる。
 2014年1月、安倍総理が中東を歴訪。ヨルダン、エジプト、イスラエルと、訪問先は中東の親米国家ばかりだった。
 1月17日、安倍総理がエジプトで「イスラム国(演説ではISIL)と戦う周辺各国に総額2億ドル(235億円)の援助を行う」と演説。⇒ 「人道支援で2億ドル」という表現にとどめずに、わざわざ「ISILと戦う各国に…」と述べた。もちろんこの時点で安倍総理は後藤、湯川氏の拘束を知っていた。
 1月20日、エジプトでの安倍演説の3日後、「イスラム国」が2人の殺害予告動画をネット上にアップ。72時間以内に身代金2億ドルを用意しなければ、2人を殺害する」というメッセージが世界を駆け巡る。
 その直後、イスラエル訪問中だった安倍総理が、急きょ記者会見。日の丸だけではなく、イスラエル国旗をバックに「テロには屈しない」と宣言。
 1月21日 ヨルダンに本格的な対策本部を置く。中山副大臣が派遣される。一部で、本部はトルコに置くべきという声が上がったが、なぜか日本政府はその声を無視。ヨルダンにこだわる。
 同日、72時間以内の人質解放に向けたきわめて重要な時間に、日本と英国が外務・防衛閣僚会議、いわゆる2+2を予定通り強行。「イスラム国」にとって英国は米国に次ぐ敵。そんな相手と防衛戦略について協議した。延期や中止ではなかった。
 1月23日午後2時50分。政府が「期限」を切った時刻がすぎるが、交渉に進展なし。
 1月24日深夜(25日早朝)。殺害された湯川さんの写真を持つ後藤さんの姿が公開される。その中で、「イスラム国」の要求が変化。ヨルダン政府に拘留されているリシャウィ死刑囚と後藤さんとの人質交換に。
 1月28日、後藤さんの音声だけが公開される。「29日現地時間の日没までにリシャウィ死刑囚をトルコ国境につれてこなければ、ヨルダン人パイロットは殺害される」というものだった。
 この要求を受けて、いったんヨルダン政府がリシャウィ死刑囚と後藤さんの1対1交換に応じる旨の情報が流れる。ヨルダンの首都アンマンでは、パイロットの親族を中心に「カサースベ中尉を返せ」とデモが発生。ヨルダンではきわめて珍しい「王政批判」が起こる。
 1月29日、ヨルダン政府はあくまでもリシャウィ死刑囚とパイロット、後藤さんの1対2交換にこだわる。「パイロットの生存確認が先だ」となり、運命の日没を迎える。
 このとき、「イスラム国」は後藤さんの身柄をトルコ国境まで移送していた。
 国境の街、トルコ側はアクチャカレ。シリア側はタルアブヤド。このアクチャカレとタルアブヤドは、きわめて近く、障害物もないので互いの姿が見える。太陽が沈む。シリア側タルアブヤドの丘の上に「イスラム国」兵士が現れ、両手で大きく×印。そしてシリア側の国境が閉ざされた。「期限が過ぎたので、リシャウィ死刑囚を連れて来ても、もう交換には応じない」という意思表示。
 2月1日早朝、後藤さん殺害の動画が公開される。犯人のメッセージは、「お前たち愚かな有志連合は、われわれがアラーのご加護により、 権威と力のあるイスラム教カリフ国家であり、お前たちの血を欲し がっている軍であることを理解できていない。 安倍、勝ち目のない戦争に参加するというお前の無謀な決断の ために、このナイフは後藤を殺すだけでなくお前の国民がどこにいようとも 虐殺をもたらすだろう。日本の悪夢を今始めよう」。だった。
 2月1日以降。ヨルダン人パイロットは、1ヶ月も前に焼き殺されていたことが判明。その後、ヨルダンはリシャウィ死刑囚などの死刑を執行。空爆を強化する方向へ。逆にUAE空爆中止へ。
 日本では、国会で野党から安倍総理の軽率な発言などが追求される。政府は逆にこの事件を契機として、自衛隊の紛争地への派遣、特殊部隊を使った救出作戦の可能性などを論じ始める。この事件を利用して「テロとの戦い」「有志連合への積極的な参加」へと一気に舵を切りたい安倍政権と、それを許さない国民的な闘いが正念場を迎えている。
人質事件の私的分析
 まず最初に訴えたいのは「イスラム国」側が、湯川さん、後藤さんを同列視していなかったということだ。湯川さんは民間軍事会社の経営者として、実績を積むためにシリア入りし、銃を持ったまま拘束された。彼のホームページには田母神氏と握手する写真、AK47ライフルを連射する動画などがアップされており、「イスラム国」は田母神氏がどういう人物か、民間軍事会社とは何か、などを知り尽くしている。だから、湯川氏は「スパイである」と断定され、彼らの英語表現では、WAR CRIMINAL(戦争犯罪者)だった。
 一方、後藤さんはフリーランスのジャーナリストであり、シリア内戦を止めたいというメッセージを発していることから、「イスラム国」側は、HOSTAGE(人質)と規定していた。
 あの殺害予告動画では、二人ともオレンジ色の囚人服を着せられていたため、「イスラム国」が二人を同列視しているような印象を持つ人が多かったと思われるが、現実はそうではなかった。
 72時間以内に、自由シリア軍幹部がインターネットで「イスラム国」幹部と交渉をしてくれた。この「イスラム国」幹部は、ラッカ県の県知事側近だった。ラッカは「イスラム国」の首都である。かなりの中枢人物が、「本当は後藤は殺したくない」と述べたという。
 この時点では間違いなく、身代金か人質交換が成立すれば、少なくとも後藤さんは救出できたと考えている。
トルコに逃げたシリア難民も、自由シリア軍幹部も、日本政府は対策本部をトルコに置くべきだと主張した。なぜか?
 ヨルダンは「イスラム国」を空爆する側、つまり敵であり、ヨルダンのアブドラ国王では、交渉は成立しないという意見だった。
 一方、トルコは空爆には参加せず、米軍がトルコの基地を使用したいと要望しても、基地の使用を認めてこなかった。さらに、トルコはシリア内戦において、アサド軍を打ち負かすために、自由シリア軍内にいたヌスラ戦線というイスラム過激派も支援してきた。ヌスラ戦線の兵士の一部が、その後、「イスラム国」に合流したため、「イスラム国」側はトルコとのチャンネルを持っている。「イスラム国」が掘り出す原油を、トルコは密輸で購入していた。さらに49名に上るトルコ人の人質を解放したという実績もあった。
 私も、これはどう考えてもトルコのエルドアン大統領に頼むしかないと思った。シリア人の友人も同意見だったので、彼は外務省に出向き、「トルコルートの活用」を申し出た。私も外務省中東アフリカ局に緊急電話を入れて、トルコルートを採用すべきだと申し上げた。外務省は意見を聞くだけだった。
 72時間が過ぎた。「イスラム国」は、まず「WAR CRIMINAL」と規定していた湯川さんを殺害した。この時点で、要求はリシャウィ死刑囚との人質交換になった。なぜ「イスラム国」がリシャウィ死刑囚を求めて来たのか?
 それは対策本部がヨルダンにあったからだ。もしこの時点でトルコにあったら、「イスラム国」は、自由シリア軍が拘束した、別の「イスラム国」幹部との人質交換を求めただろう。そしてそれは交換可能だったと思う。ヨルダンにとってリシャウィ死刑囚の解放は、かなり厳しい条件だった。
 2005年11月、私はリシャウィ死刑囚たちが起こした同時多発テロの現場を取材した。ホテルの結婚式場の自爆で、約60名が殺された。「ラディソンSAS」という5つ星ホテルでの凄惨な犯行。殺されたのは普通のヨルダン市民。なぜこんなことが?
 「ラディソンSAS」も「フォーシーズンズホテル」もアメリカ、イスラエル系列のホテルだったから、だ。
 この事件まで、ヨルダンはイラク難民を受け入れて来た。アンマンの広場はイラク難民であふれていた。事件後、ヨルダン政府はイラク難民を追い出した。リシャウィ死刑囚たちがイラク人で、無辜の市民を殺害したことへの報復だった。普通のヨルダン市民はもちろん、イラク難民もこの事件で大変な迷惑を被った。アンマンでは50万人の市民が街頭に繰り出し、「テロに屈するな!」とデモを行った。そんな怒りの矛先、忌み嫌うべき死刑囚がリシャウィだった。
 皮肉なことに、ヨルダンを追い出されたイラク難民はシリアのダマスカスに向かった。シリアのアサド大統領は、
この時点でもっとも「人道支援に前向きな」独裁者だった。
 1月28日、最後のメッセージが出された。「29日の日没までにトルコ国境までリシャウィ死刑囚を連れてこい。あくまで後藤さんとの1対1の交換だ」。このとき「イスラム国」側で内紛が起こっていた。「あくまで後藤さんは『人質』。殺さずに人質交換、または身代金で解決すべき」と主張するグループ。「いや、日没までに、という期限を切ったからには主張通りに殺害していくべき」というグループ。「イスラム国」はいっさい妥協しない、という残忍な姿を強調することで、世界的に存在感を高めるべきだという主張だ。後藤さんは「身代金ゲットの切り札」から、「内紛の種」になったと思われる。そんなことなら殺してしまえ…。
 2月1日、殺害動画が公開される。悔しいのは、何度も救出できるチャンスがありながら、安倍政権が迅速かつ合理的に動かず、むしろ「困難な方向」へ事態を動かしてしまったということ。政治は結果責任である。2人の命を救えなかったことは、日本の外交史上まれにみる失態と断じざるを得ない。
この事件の本質部分
 整理しておこう。?水面下で「イスラム国」側から提案があったとき、なぜ交渉しなかったのか??2人の身柄が拘束されているのを知りながら、なぜ安倍首相は「イスラム国」を挑発するような演説ばかり行ったのか??イスラエルでネタニヤフと握手し、イスラエル国旗の前で「テロには屈しない」という緊急記者会見。なぜ会見場からイスラエル国旗を取り除かなかったのか??72時間という非常に重要な時期に、英国と2+2を行ったのはなぜか?延期すべきではなかったか??対策本部をヨルダンに置いたのはなぜか?なぜ正式にトルコに頼まなかったのか?ちなみに安倍首相とエルドアン大統領は、トルコへの原発輸出に関して、頻繁に連絡を取り合い、ホットラインができている。すぐにお願いできたはずだ。?ヨルダンは「イスラム国」の敵。だから交渉には不向き。?リシャウィ死刑囚を要求して来たのは、日本がヨルダンに本拠地を置いたから。ヨルダンにとってリシャウィ死刑囚の解放は高いハードル。?後藤さんではなくパイロットの解放を求めた異例の国王批判が起こった。国王はアラブの春で独裁者が倒れる姿を目の当たりにしている。動揺が走った。後藤さんとの1対1ではヨルダンの支配体制が持たないと判断した。時間が無駄に費やされ、運命の日没を迎えた。
私的結論
 以上が現時点での私なりの事件の分析である。結論を一言で言うなら、安倍政権の中に「この事件を奇貨として『積極的平和主義』の名の下に、自衛隊を有志連合に加えたい」と考える人物がいたのではないか。その勢力が解放への足を引っ張り、結果として救えた命が犠牲になったのではないか。その勢力とは、アメリカであり、安倍政権を操る戦争推進派であり、日米安保で食っていこうとする「安保ムラ」の人々ではないか。
 今後、新聞では読売や産経、雑誌では文春や新潮などが「自己責任」や「テロの恐怖」などをあおっていくだろう。NHKでは籾井会長が自由な報道を許さず、政府よりの報道を進めるだろう。朝日新聞は、この間の攻撃で弱体化してしまった。どこまで政権批判ができるだろう。そして今、テレビ朝日の「報道ステーション」がターゲットになっている。状況は厳しいが、まだ希望はある。沖縄型の住民の共同。戦争だけは絶対やらせない、という市民の声を幅広くまとめていくことだ。私たちは正念場を迎えている。