朝鮮通信使に果たした対馬の役割

KokusaiTourist2015-03-29

(K.OOMURA)

 壱岐対馬へ史跡探訪ツアーに三日間のスケジュールで行って来ました。今回は書籍も出されていて、日本史にとても精通しているOさんが資料作成から現地での説明も快く引き受けて下さいました。
 徳川幕府の外交的な役割を担っていた宗家のかつての繁栄振りは、今の対馬で感じる事はとても難しいですが、果たした大きな役割は資料館や史跡からたっぷりと感じる事が出来ました。

秀吉の朝鮮出兵の後の日本への恨み辛みを越える不信感の中、朝鮮通信使が来れるように江戸幕府とのパイプ役を果たし、鎖国の中、対馬は出島に並ぶ貴重な貿易の拠点として繁栄したのです。宗家の15代目の藩主は朝鮮からお嫁さんを迎えた記念碑も残っています。

当時の山城を幾つか見学しましたが、どこも観光地化されていなくて、道なき道をひたすら登らなければなりません。眺めのよい所まで来て、なる程ここから見渡し統轄していたのかがわかりましたが、防人の過酷な労働を偲ばずにはいられません。

対馬では日本の観光客には殆ど出会う事がなく、韓国からの団体客にいろんな所で会い、観光地の説明書だけでなく、居住地での注意書きまでもがハングル文字であったのには驚きました。

確かに福岡港からのジェットホイルでは最初の寄港地の壱岐で殆どの日本人観光客が降りてしまったのを思い出した。翌日は白村江の戦いの山城に登り、1400年も前の城壁が一部とはいえ残っていて、本当に驚きました。

また対馬の地形上必要であった万関や砲台跡にも足を伸ばし当時に想いを馳せました。ただ砲台跡で説明を読んでもなかなか砲台の全景が思い描く事が出来なかったのですが、翌日、壱岐の砲台跡には絵の説明があったことで漸く全景を知ることが出来ました。

上見坂砲台は厳原と美津島の町境にある標高385mに位置し、眺望が素晴らしい。明治後期に築かれた砲座跡がしっかりと残っている。幸い実戦では一発もハッシャされることがなかったそうです。

 その後大船越瀬戸へ。ここは南北に連なる対馬半島を江戸時代、三代藩主宗義真が東西に往来出来るよう大船渡の瀬戸を掘切った場所です。開削工事は6年4ヶ月かかり、延べ3万5千人の労力と莫大な資金資材を投じて行われました。