伊藤千尋さんの講演から

 今日2日は、千葉県市川市の三本松教会で講演をしました。十字架を背負って講演するのはこれが何度か目です。最初のころは緊張しましたが、今では神様が後押ししてくれてるような気になって、かえって自信を持って話すようになりました。

今日話した大筋は以下の通りです。
「戦後70年のドイツと日本」
1. 戦後70年
・1月27日アウシュビッツ解放70周年式典
 今年は日本だけでなく世界で戦後70年の記念式典が開かれている。今年最初の大規模な70周年式典はポーランドアウシュビッツだった。ここにあったナチスの収容所で110万人、計600万人ものユダヤ人が虐殺された。彼らは「門から入り、煙突から出る」と言われた。
 国連はこの日を「国際ホロコースト記念日」に指定した。今年のこの日、パン・ギムン事務総長は「相互に尊重する世界をつくろう」と呼びかけた。
2. ドイツの戦後と日本の戦後の違い
 今の日本は中国や韓国と敵対関係のような厳しい状況に陥ったが、これとは逆に戦後の和解で成功したのがドイツだ。訪日したメルケル首相は「和解の前提は過去の総括」だと言った。その通りだと思う。
 ドイツはナチスを永遠に拒絶し、終戦記念日の5月8日を「民主主義の日」と名付けた。この日をきっかけに民主主義をより進めようという積極的な考え方だ。戦後60年のときには連邦議会のそばにホロコースト記念碑を建てた。2711のコンクリート柱を建て、ナチスの犯罪を現在、未来のドイツ人が忘れないようにしたのだ。
 この1月に亡くなったワイツゼッカー元大統領は「過去に目をつむる者は現在にも盲目になる」と語った。ドイツ政府は戦争の被害を受けた人々にきちんと個人賠償をしている。440万人に10兆円、1人あたり250万円に上る。
 ドイツの学校教育では「アンネの日記」が必読書だ。それだけではない。ナチスに反対してビラを配り処刑された21歳の女子大生ゾフィー・ショルのことも教えている。
 彼女と同じ年齢だったのが、ヒトラーの女性秘書だ。彼女は戦後、こう語った。「私とゾフィーと何が違ったのか。ゾフィーは自分で知ろうとした。私はそれを放棄して周囲のうわさだけに従った。自分で考えなかったことが私の罪だ」
 今やドイツはEUの名手になった。そもそもEUはどのようにして生まれたのか。それはフランスのロベール・シューマン外相が素朴な提案をし、それに周囲の国が賛成したからだ。それは「戦争に欠かせない鉄と石炭をドイツとフランスが共同管理しよう」という案だ。それが欧州連合という政治の共同体につながったキーワードは「アメリカからの自立」だ。
3. 日本の戦後70年
 一方、日本は戦後、個人賠償をしなかった。国家賠償をしたが、その金はアジアの独裁者の懐へ行った。日本軍のために戦時中、北ベトナムで200万人が餓死したが、日本画賠償したのは南ベトナムだった。悪名高い南ベトナム政府にカネを出し、その金で潤ったのは独裁者だけだった。
 日本の軍隊とはいったいい、どんな軍隊か?
 司馬遼太郎氏は終戦間際に戦車兵だったが、大本営が命令したのは国民を戦車で轢いて進軍し、だれもいない皇居を守れということだった。これが日本軍の本質だ。国民を殺せと言う軍隊だった。「日本の一番長い日」という本がある。終戦の日に反乱した近衛兵を描いた。日本軍は、最後には天皇にも逆らった。日本兵の7割は餓死した。それは大本営が兵士に兵糧を送らなかったからだ。このため兵士は現地で略奪をすることになり、そんために現地の人々から恨まれた。
 こうした日本軍とまったく逆なのがベトナムだった。ディエンビエンフーの闘いを指揮したボー・グエン・ザップ将軍は、勝利の瞬間、「荒れた戦地を農地に戻すのが私たちの役割だ」と考えた。農民のための闘いだったからだ。こうした軍隊だったから国民の信頼を得た。
 今や日本政府は米国にますます従属しようとしているが、明治の日本政府は誇らしかった。明治5年にマリア・ルス号事件が起きたとき、日本政府は毅然として人道主義を主張し、そのために日本は世界から認められた。
以下、こう続きます。疲れたので、この辺で・・・。
4. アジアとどうすればいいのか
・中国の発展段階、アジアでは20年おきに日本・韓国・中国が発展
・韓国済州島の平和博物館「自由と平和は努力なしに得られない」
・フィリピンの「幸せなら手をたたこう」、YMCAの木村利人氏作詞
5. コスタリカの旅から
ノーベル平和賞、積極的平和とは