日本のシンドラーのふるさとへ…

KokusaiTourist2006-09-17


 日本のシンドラーと言われる杉原千畝氏のふるさとへ行ってきました。8月下旬に信州へのドライブの途中でした。前の日にネットで場所を確認し、いつもの調子で何とかなるやろと、高速道路を降りたのはいいけど、地図を持ってないので、幾つかの交差点で勝手に判断つけながらたどりつきました。それでも岐阜県関のインターから50分ほどかかったようです。八百津町という町で、町あげて杉原千畝氏の人道的偉業を誇りにしていました。町内の丘陵地を人道の丘公園として整備し、その中心施設に記念館があります。
以下 そのホームページからの紹介です。

杉原 千畝(1900 - 1986)
あなたはミスター・スギハラの名前を知っているでしょうか。世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官。
1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの日本領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大。ナチスユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。大量虐殺…ホロコースト
そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが杉原のもとに押しよせたのです。当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はなかったのです。
このとき日本とドイツは同盟関係。ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。杉原はビザ発行の許可を得るために日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は「ノー」。
「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原は書き続けました。
杉原千畝は、ユダヤ人へのビザ発給により約6千人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った外交官ですが、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行ったのです。
1900年1月1日、八百津町で誕生。小さい頃からおとなしくて優しい性格。それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢一ミスター・スギハラ。
ユダヤの人たちはこの名前を決して忘れることはないでしょう。
杉原千畝が生まれ育った自然豊かな地に建つこの記念館で、千畝の真の姿に触れてください。
あなたにも、努力・柔軟さ・勇気を持って行動すれば、将来においてきっと社会に貢献できるはずです。