藤沢周平の作品と人物に触れて…その6 【新幹線・観光・東北について…老婆心ですが】

KokusaiTourist2008-04-09


 いま、藤沢周平とその作品が“志たかく情あつい”歴史・時代作家、作品として新たな注目が集まっています。そうした作品を産み出してきた彼自身のことばを聞けば改めてそのいまの評価と注目が理解できます。いくつかを紹介します。出典は、彼のエッセイ集“ふるさとへ廻る六部は”です。

『ふるさとへ廻る六部(巡礼)は気の弱り』 山形出身の藤沢周平が初めて青森、秋田、岩手へ旅した時の気持ちを自嘲的に表現した古川柳


奥羽3千年のうらみ、などという言葉がある。半ばは冗談で、まさか東北の人間が、中央に対していつもそんなふうに考えているわけではないが、歴史的な事実は、その言葉があまったくの虚構でないことを示してもいる。
 東北は、つねに中央から来る招かざる権力に服従を強いられて来た土地である。蝦夷征討しかり、安倍氏の滅亡しかり、藤原氏の滅亡しかり、中世を経て戦国末期になると、秀吉が来て強引な検地を実行したし、幕末の戊申には「白河以北ひと山百文」と蔑視されて、戦わざるを得ないようにし向けられた。あげくは朝敵あつかいである。バカにするなと言いたい。

…(中略)… そういう東北に新幹線が走る。新幹線が、中央並みというお上の取りはからいなのかどうかはよくわからないが、さっき言ったような文脈から考えれば、おそまきながら新幹線が出来て、それが東北の人々に何ほどかの便利と幸福をもたらすのであれば、大いに歓迎したいものだ。
…(中略)…
新幹線が、交通便利な乗り物という本来の役割にとどまるかぎり、問題は何もない。東北人は胸をはってその便利さを享受すればいいのだが、そこに観光がからんで来ると、新幹線はただの乗り物では済まなくなる…(中略)…うまくいけば、現代の“奥の細道”がにぎわい、あるいは空前の東北観光ブームが起きるかもしれない。…(中略)…だが、その観光地化が、はたして東北をしあわせにするのかどうか。地元が潤うのを喜ばないわけではなく、半ばその成功をねがいながらも、私はそこのところに若干の危惧を感じないではいられない。

 たとえば京都は観光地で、おびただしい観光客がおとずれる場所だが、そのために京都人がスポイルされることは、まず考えられないことである。京都は長い間日本の文化と歴史の中心だったし、ある意味ではいまなお中心で有り続けている。京都がになっている歴史と文化から見れば、東京などは得体の知れない疑似文化がはびこる新興都市にすぎない、というようなものである。

…(中略)…


 観光地東北は、この京都のような主体性を持ちうるだろうか。観光地東北とは何かといえば、それは松島とか平泉とか、世に知られる観光地と二、三の大きな祭りを除けば、大体は素朴な自然、伝統芸能、そういったものを見てもらい、素朴な産物を味わってもらうということだろうと思う。あるいは、その旅の間に、素朴な人情に触れてもらうことも含まれるかも知れない。
東北が公開しようとしているのは、一口に言えばそういうナイーブな山河自然と人情である。その文化の形はやわらかく傷つきやすく、京都文化の権威と強さをもたない。おおういう点に、老婆心に似た懸念をさしはさむのは、私はかねて、東北には三つの性格の型があると考えているからである。
ひとつは中央に対してはげしく反発する性格である。この性格は新幹線にも観光にもつばを吐いて背を向けるに違いない。いまひとつの性格は、状況から一歩さがって、中央から来るものが何者であるかを慎重に見きわめようとする型である。行動に出るのはおそいが、大勢が観光と決まればあえて拒みはせず、順応するだろう。

 だが、観光を主導するのは、この二つの性格ではあるまい。第三の性格がある。すすんで中央に迎合し、強い中央志向を示す型である。これもまた、東北の歴史と風土が生みだした性格だが、観光の旗振りが地方自治体をはなれて民間に移ったときに問題があるだろう。この性格は、行きすぎると観光に名をかりて東北を中央のコピーに仕立てかねないのである。

…(中略)…
矛盾するようだが、私が東北の中央並みというのは、中央への組み込みということではない。むしろ東北の自立のことである。出稼ぎか兼業でなければ中央並みの生活を維持出来ない現実の改正のことであり、必要なら東北に中央を取り込むということである。その逆ではない。
 新幹線はその答えで、観光は東北の救世主なのだろうか。私にはどうもそうは思えず、観光は、ヘタをすると東北を悪く変質させかねないもろ刃の剣ではないかと疑うのだが…(後略)…
(「週間朝日」増刊昭和57年7月1日)