韓国人の心のなかに

KokusaiTourist2009-12-14


生きた日本人   韓国併合100年」に向けて…

浅川巧のルーツを訪ねてその2

2009年11月28日(土)〜30日(月)(右写真は山梨県北杜市HPより)

「浅川巧」と聞いてもピンとくる人はまずいない。かくゆう私も今春までそうだった。朝鮮磁器を日本に事実上伝えた最初の人くらいの紹介でハハ〜ン。次に、「100年前の『韓国併合』で朝鮮人の憎悪の対象だった日本人の中で、敬愛された唯一の日本人」との紹介で私の感性に火がついた。
紹介者からの史実に基づく小説「白磁の人」、ラストを読みつつ涙した。この小説を原作に映画化が浅川巧の故郷・山梨県高根町で進められている、そして関連企画が今夏行われているとも聞き、そこをも訪ねた。その前後に京都の麗美術館、河井寛次郎記念館、大阪の東洋陶磁記念館、日本民藝館と訪ねた。
 そうなると、やはり韓国現地を訪ねたくなった。当初興味を示した朝鮮問題のグループにも声をかける中、浅川巧の名前を唯一知っていたF氏と二人で韓国へ乗り込んだ。
F氏は岐阜の工業高校で陶磁器に触れ、京都・東山区の業者活動で陶磁器組合など専門人士との交流や地場伝統産業の深い見識、そして東山区の革新運動の歴史に携わってきた人物で、今回のツアーの打ってつけの同行者だった。
【28日(金)】
 韓国便はいつもながら関空集合が早く、辛い。昼前に仁川空港着。韓国ツアーでいつも使う現地旅行社だが、今回特に「浅川巧の下調べ」を頼んでいた。出迎えのガイドは金さん。(女性)
 仁川は思ったより寒くなかったが、霧がすみで曇り状態。空港近くのレストランでビピンバの昼食すませソウルへ。高速、バイパスが整備され走行はスムーズ、超高層マンシャンばかり。なにせ人工の半分(4000万)が暮らす町。高速降りて一般道はラッシュがきつい。割りこみなど違法が目に付く。ただバスレーンはしっかり守られ好感もてる。
 最初の浅川が勤務していた清涼里(チョンニャンニ)の林業試験所を訪ねた。浅川は磁器をわが国に広めたが、本来朝鮮の禿山を緑にすべく松の新種改良に勤しんだ。幾つかの研究棟の中庭に様々な松があるが、その中庭で誰が見ても云われのありそうな大樹が周りを囲われている。「洪林檜」の碑文には「1892年浅川巧が植え、1922年この地に移植した」と記されている。(ハングル)この「洪林檜」とは浅川を慕う林業試験所OB会だそうだ。これを見ても浅川が韓国での林業への貢献度が知れる。
 次に、車で郊外の忘憂里(マンウリ)の公園墓地。京都で言えば東山の将軍塚と大谷本廟のイメージだが、規模が違う。何十万の土葬墓があり、その広大さで、市民のハイキングコースになっている。確かに整備された道はお参りより、トレッキング、サイクリングを楽しむ人ばかり。坂道を登る事30分、スタートでは肌寒かったが、どんどん暖かくそして汗ばんできてコートを脱ぐ。登りなので息も上がる。この何十万の墓から浅川巧の墓を見つけるために、事前に金さんがHPで墓の番号を調べていた。しかしそれは墓の一角を表すのもので、要は自分で探せという代物。
庶民の墓より名士のそれは確かに大きく綺麗に整備もされていて山の頂上付近にある。203363が浅川巧の墓番号。有名な碑文、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」。1984年洪林檜と山梨県高根町有志によって建てられた物。
右に墓碑は兄・浅川伯教のデザインで白磁の壷をかたどっている。我々が訪ねた数日前にも参拝者があったようで、花が手向けられていた。何より感嘆したのは、この何十万の韓国人の墓に中に立った一人の外国人が日本人・浅川巧だということだった。ソウルには外国人墓地もあり、例えば浅川逝去で聖書を読んだ曽田加伊智などはそこに眠っているという。この曽田もその墓地では伝道師としては唯一の日本人という。返す返すも韓国人の浅川巧に対する敬愛度合いが知れる。
 いつの海外旅行初日は疲れる。夕食はカルビ。これもいつもだがツアー(安価?)焼肉はあまり上手くない。
私の住む京都市南区焼肉店の方が口に合う。ホテルは中心部明洞正に観光スポットの一角。京都で言えば新京極の真っ只中の感。歩行者天国の中を我々のワゴン車が入る。何も非はこちらでなく、車道一杯の歩行者観光客に非があるのだが。ちょうど寺町〜烏丸間の三条通りを人が車道にも溢れていると思っていただければいい。

(H.TOMITA)