遠藤と司馬

KokusaiTourist2011-06-06

震災で考える浄土への思い
毎日新聞“反射鏡”(=論説委員・重里徹也)より

 「つめたい学校の廊下や体育館に、いまだに女性や老人を雑居させている当局のやり方も、私にはわからない」 最近書かれた文章ではない。遠藤周作(1923〜96)が95年の阪神大震災の1カ月後、政府を批判した言葉だ(エッセー集「最後の花時計」)。
 キリシタン弾圧下のポルトガル人宣教師を描いた「沈黙」や仙台藩士・支倉常長をモデルにした「侍」などの小説で知られる作家は、苦しい闘病中にもかかわらず、政治の対応の遅さや実行力の足りなさを新聞などで批判した。自らが育った阪神間に強い愛着があったのとともに、困っている人がいると黙っていられなかったのだろう。
 今、遠藤が生きていたら、東日本大震災を前にして、どんな文章をつづっただろう。ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害や中東情勢についても、何を語っただろうかと考えてしまう。
 没後15年を記念した遠藤周作展が6月5日まで、横浜市の県立神奈川近代文学館で開かれている(月曜休館)。若い人の来館も多く、会場は幅広い年代の人たちでにぎわっている。
 遠藤は10歳の時に両親が離婚し、母の希望で、12歳で洗礼を受けた。以後、森羅万象に神の現れを見るような日本の精神風土の中で、一神教であるキリスト教信仰がどのように可能なのかを考え、日本人が心をゆだねることのできる神の姿を追い求めて、作品を書き続けた。
 今回の展覧会は遠藤文学を、宗派の違いを乗り越えて、すべての魂を受け入れる神の姿を求めたものだととらえる。
 展覧会の編集委員でもある文芸評論家の富岡幸一郎さんは「人はそれぞれの宗教を通して、人間を超えた神的な存在を感じている。政治的に利用されることの多い宗教対立を超え、宗教多元主義の可能性を示したのではないでしょうか」と話す。
 遠藤が「合理主義の限界」や「科学による人間の機械化」に何度も言及しているのも見逃せないとも指摘した。近代主義そのものに、問いを投げかけていたのではないかというのだ。
 確かに原発事故は、合理主義や科学技術のあり方を問いかけた。「合理的」だと思われてきた施設なのに、「想定外」の事態が起こってしまう。科学技術を用いる側に、自己批評を失っていたという側面はありはしなかったか。そこでは、自分を超えたものへの畏れが足りなかったのではないのだろうか
 ところで、会場には司馬遼太郎から遠藤にあてた書簡が2通、展示されていて目をひいた。生没年が同じ2人の人気作家は、本音を言い合う仲で、年末・年始によく京都のホテルで談笑したらしい。
 司馬はエッセーや講演で、何度も遠藤作品に触れている。いわば血みどろになって、日本の精神風土と誠実に向き合った姿に注目していたのだろう。
 遠藤は人間は皆ずるくて弱いものだと思っている、と司馬はいう。そして、そういう人間を神は捨てておかない。
 司馬はそんな「遠藤神学」をほとんど浄土教(仏教の一つ。阿弥陀仏(あみだぶつ)を信じ、念仏を唱えて極楽浄土に生まれることを説く)のようだという。「(遠藤の)神を阿弥陀さんと置き換えてもいい」というのだ(「司馬遼太郎全講演」第1巻)。
 司馬は歴史を振り返って、「日本人は浄土教から離れることができない」とも論じている。万民を救う浄土思想は、日本人の精神の根っこにあるものの一つだと考えられている。
 遠藤から司馬へ、思いをはせていたら、朗報が飛び込んできた。岩手県平泉が6月に世界文化遺産に登録される見通しとなったのだ
 平泉は平安末期の約100年間、奥州藤原氏の本拠地として栄えた。豊富に産出した金や南北交易による富を背景に、美しい都市が造営された。
 金色堂がある中尊寺や毛越(もうつう)寺など、いずれも極楽浄土信仰を表現した建築や庭園群だ。そこには、戦の時代を経て、争いのない世界を表現しようとした平和思想があったとされている。それが、人類にとって普遍的価値を持つと評価されたのだ
 何年か前に平泉を訪れた時の感動を思い出す。毛越寺の浄土庭園は仏の国(浄土)を具現したとされる。池の周囲を回る造りだが、空気が澄んでいて、すがすがしい。あまりの心地よさに1周だけでは物足りず、2周目もゆっくりと散策した。
 平泉の世界遺産登録は東北復興のシンボルになるだけではない。私たちの心を再生する力にもなるのではないだろうか