南京・揚州、

○○○○○○鎮江5日間の旅  その2
○○○○○○○○宋 敏(SONG MING) 

その1http://d.hatena.ne.jp/KokusaiTourist/20111024
 9月27日から10月1日まで、日本中国友好協会兵庫県連合会様主催の「南京大虐殺の歴史をたどる平和ツアー」の添乗に行ってきました。
3日目 9月29日(木)
朝食後、先ず向かったのは「侵華日軍南京大虐殺記念館」です。
  南京大虐殺記念館」とは1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事変を起こし、全面的な中国侵略の戦争を発動した後に、同年8月13日、日本軍は上海を攻撃し、上海を南京攻略の第一歩としました。11月12日、日本軍は上海を占領し、その後、兵を三つのルートに分けて南京へ向かい、12月13日、日本軍は南京を占領したあと、公然と国際公法に違反して、武器を手放した兵士と身に寸鉄も帯びない平民たちを大量虐殺しました。その期間は六週間にもわたり、犠牲者総数は30万人以上にも達し、その期間に、南京の三分の一の建物が破壊され、市内で起こった強姦輪姦などの暴行は二万件以上にのぼり、数多くの国家財産と個人財産が略奪され、文化の古都は空前の災禍に見舞われ、南京城は人間地獄と化していました。この世のものとも思われない悲惨なこの歴史事件は、日本軍が中国侵略期間中行った数え切れない暴行の中でも、もっとも際立った代表的な一例であり、この大惨禍は永遠に人類の文明史上に記されるであり、ここに展示されている写真、資料、映像と実物はすべてゆるがぬ歴史的証拠である。」と記されていました。
 南京大虐殺記念館に入ってからまず遇難同胞に献花。そして、記念館の陳副館長に南京大虐殺歴史事件や館内の紹介など詳しく説明していただきました。
 次に、張秀紅証言者の話を聞きました。張さんは当時12歳。目の前で日本軍によって自分の家が放火され、家族を殺され、綺麗な女性が乱暴されたり…当時の話を聞いて、「戦争って本当に残酷だなぁ」と改めて痛感しました。その後、館内を見学して、昼食会場へ。
 昼食は昔ながらの南京の街並みが残る「夫子廟」で南京名物である飲茶料理を堪能しました。その後夫子廟を自由散策。
午後から長江を渡り水陸交通の要衝として栄えた、優美な詩情あふれる麗しき
都、揚州へ。陸路、2時間くらい。揚州に到着後、すぐに遣唐使空海や中国から日本へ到来した“鑑真さん”の始発点である古運河と七層八角の文峰塔を見学しました。
 鑑真は唐時代の垂拱4年(688年)に現在の揚州市に生まれ、702年に出家、律宗天台宗を学び始めました。その後、大明寺で住職となり、住民に尊敬される存在だったそうです。唐時代の天宝元年(742年)、大明寺住職であった鑑真は、日本へ仏法及び戒律を伝えてもらいたいとの遣唐僧の栄叡と普照からの熱意ある要請に応じて渡海を決意し、翌年から日本への渡海を試みます。その後、鑑真は様々な苦難に遭遇し、11年間、5度の渡海に失敗します。悲願が達成されたのは6回目の渡海で、天宝12年(753年)に日本に到着、最初の渡海の試みから12年目のことでした。鑑真が失明したのは5回目の渡航後であり、それにもかかわらず志を曲げず6回目の渡航に挑み、ようやく渡航に成功したのです。その後鑑真は戒律制度を整備確立させるとともに、唐招提寺を建立し律宗の伝授に努めるなど、日本で入寂(亡くなった)されるまでの10年間、当時の日本に大きな影響を及ぼしたそうです。
 鑑真さんの諦めない精神に本当に感動しました。「成せばなる、成さねばならぬ・・・・」改めて何事も最後まで頑張ることが大切だと思いました。
夕食は揚州料理(揚州炒飯など)を堪能した後、東関街にあるホテルへ。東関街は清代の揚州を再現した全長の1,122mの通りで、最近は、観光地として整備されています。
清代の揚州は、国の専売品である塩の流通を一手に握り、富を集中しており、豪華な庭園も数多く造られる(戦火で今はその殆どが消失)など、揚州の街は清国で最も賑わった都市の一つでした。東関街は揚州の商業の中心地であった地域で、これを再現したことになります。
 写真下の狛犬のある入口が長楽客桟(長楽ホテル)で、清代の建物を当時のままに内装を施し、当時の調度品も置いています。もともとは李長楽という人の屋敷だったところで、庭園も整備されています。長楽客桟(長楽ホテル)にいると、清の時代にタイムスリップしたかのようです。本当によかったです。次、揚州に来たら、やはりこのホテルに泊まりたいなと思いました。