ドクター安達の沖縄平和旅行記 その2

KokusaiTourist2012-03-02


2011年11月18日(金)大阪晴れ 気温6℃ 那覇曇り 気温16℃
 昨日は、私が執筆者の一人になっている医学書の改訂版原稿〆切がツアー終了の翌日になっていて、その原稿書きに追われ3時間の睡眠でツアーに参加することになった。ああ、最近旅行はいつも睡眠不足での参加になる。
 5:45自宅を出て、6:00西宮北口発のリムジンバスに乗り、集合時間の7:15を少し過ぎて関空に着く。もう手続きは始まっていて、チケットをもらい手荷物を預け、搭乗口に着くとすぐに乗機となる。当初31人参加の予定が、インフルエンザ罹患や追試になった医学生がいて5人がキャンセルとなっていた。8:00発のANA1731便は、ほぼ定刻通りに離陸。正味2時間のフライト中は目を閉じて体を休めておく。那覇空港に10:20ほぼ定刻通り到着する。
 今日一日は、ひめゆり学徒が動員された陸軍病院跡(南風原、糸数)、ひめゆりの塔および平和祈念資料館(伊原)、死の彷徨をおこなった荒崎丘陵〜荒崎海岸などを見て回り、夜にはひめゆり同窓会の山城さんのお話を聞くという、ひめゆり学徒の体験を通して沖縄戦について学ぶ企画。
バスに乗車、黄金森に向かう
10:50バスに乗車、最初の見学地はえばる南風原陸軍病院跡に向かう。平和ガイドは、沖縄平和委員会の宮川さん。神戸出身でダイビングが趣味でよく沖縄に通っていたが、阪神大震災のあとダイバーの知り合いから誘われ沖縄に移り住み、移住してからは平和委員会の仕事をするようになったとのこと。
ダイビングに通っていた時、飛行機が海面すれすれに飛ぶのはきれいな沖縄の海を間近に見せるサービスと思っていたが、上中下とある航空圏域のうち米軍が上方を占有しているので、民間機は危険な低空飛行を強いられているのだと後で知ったそうだ。
沖縄陸軍病院は、沖縄守備軍直轄の病院で、1944年6月から那覇市内で活動を始めた沖縄で一番大きな総合病院。同年10月10日の米軍空襲(沖縄では10・10空襲と呼ぶ)で施設が焼却し、南風原国民学校宿舎に移転した。陸軍病院南風原国民学校近くの黄金森に約40の横穴壕を掘り、米軍の艦砲射撃が始まった1945年3月下旬に各壕へと移った。当初、内科、外科、伝染病科に分かれていたが、米軍上陸に伴い負傷兵が増えてくると、内科は第二外科に、伝染病科は第三外科となる。
陸軍病院は、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加え、3月24日に沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が18人の教師に引率され看護補助要員として動員された。2つの高校は県内屈指の学校として有名で、皇民化教育をまじめに受けてきた優秀な生徒たちは、ナイチンゲールになれるのだと嬉々として赴いたそうだ。ひめゆりとは、一高女の校友会誌「おとひめ」と師範の校友会誌「白百合」の名前の一部を合わせて一つにした校友会誌「姫百合」の名前で、戦後ひらがなで「ひめゆり」を使うようになったとのこと。
戦前沖縄では死体は風葬か土葬にするのが習わしで、ここの森にたくさんのお墓があり、夜になると火の玉がたくさん飛んでいたので黄金森と言われるようになったそうだ。ここにあった第一外科壕群、第2外科壕群は、1990年に南風原町文化財に指定した。国に戦争遺跡として登録したいと申請したがとんでもないと断られ、町は琉球大学の研究者と共同して遺跡発掘を行った。約40壕あった壕は現在20壕だけが復元され(他は岩盤が弱く崩れた)、平和教育の貴重な文化財として役立っている。
南風原はえばる)陸軍病院
11:20黄金森に到着。陸上競技場と野球場の間を歩いて20壕の入口へ。ガイドのおばさんたちが待機していた。飯あげの道を見てから、ヘルメットをかぶり懐中電灯を持って、すべてつるはしで掘ったという壕内に入る。高さ1.8m、幅1.8m、長さ70mの横穴壕だ。むき出しの土壁にそって粗末な2段ベッドが備え付けられただけの施設だった。
4月1日、米軍の沖縄本島上陸に伴い、前線から負傷兵が次々と送られてくるようになる。病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声とどなり声が絶えなかったそうだ。生徒たちは、負傷兵の看護のほかに、水くみや食事の運搬(飯あげ)、伝令、死体埋葬なども行った。陸軍病院に動員されると聞いた時、生徒たちは弾の飛んで来ない、赤十字の立てられた病院で看護活動をするものだと思っていたが、そこは、前線同様、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場だった。
埋められた医薬品類、入院患者のものと思われる石鹸箱などの遺品、人骨、天井に刻まれた3文字などが壕内に残っている。40年経ってからの発掘だったが、多くの遺骨が放置されたままだったそうだ。
5月下旬、米軍は日本軍司令部のある首里に迫って来る。日本軍は米軍の本土上陸を遅らせるための持久作戦を取ることを決め、降伏をせず、本島南部に撤退を始める。陸軍病院にも撤退命令が出され、生徒たちは歩ける患者を連れ、傷ついた友人を担架で運び、薬品や書類を背負って、砲弾の中を南部に向かう。重症患者は壕内に残され、青酸カリ入りのミルクを飲まされたという。
昼食12:00バスに乗車し昼食会場へ向かう。12:30ひめゆり平和祈念館前にある「優美堂」へ。各班ごとにテーブルを囲み、ソーキそばとくふぁじゅーしーの昼食を食べながら自己紹介。匂いに釣られ、揚げたばかりのサーター・アンダギーを買って食べる。

ひめゆりの塔ひめゆり平和祈念資料館を見学
13:10すぐ前にあるひめゆりの塔へ歩いて行く。ひめゆりの塔は、糸満市にあった伊原第三外科壕跡に建てられている。塔前面に病棟のあったガマ(洞窟)がある。このガマの中に当時50名のひめゆり学徒をはじめ、病院関係者、住民などおよそ100名がいた。解散命令の出た直後の6月18日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、約80名あまりが死亡。生き残ったひめゆり学徒は5人だけだった。医療人の碑、ひめゆりの塔、第三外科病棟職員の碑に、犠牲になった人々の名前が刻まれている。
解説を聞いているとき、緑色のとかげの一種?が現れる。家に帰って息子に聞いたらキノボリトカゲだという。カメレオンに似て感情によって瞬時に体の色を変えることができるのだそうだ。
ひめゆり平和祈念資料館へ。中庭には色鮮やかな花が咲いている。最初に30分ビデオ『平和への祈り ひめゆり学徒の証言』を鑑賞して、展示室を見て回る。
第1展示室はひめゆりの青春。夢見る年頃のごく普通の明るい青春を戦時色に塗りかえていった戦争と教育の過程が展示されている。
第2展示室はひめゆりの戦場。教師を含め動員されたひめゆり部隊240名は南風原にあった陸軍病院へ。戦場でのひめゆり学徒や負傷兵の実態、40年後に発掘された医療器具や生徒が携えていた品々がエピソードとともに展示されている。
第3展示室は解散命令と死の彷徨。米軍が間近に迫った1945年6月18日夜、解散命令が出され、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出される。解散命令後の数日間で100名あまりのひめゆり学徒が死亡、この時の悲劇を米軍のフィルムと生存者の証言で構成している。
第4展示室は鎮魂。壁に沖縄戦で亡くなった200余名の犠牲者の遺影が貼られている。そして生存者の証言本を読むことができるようになっている。
売店ひめゆり平和祈念資料館という分厚い解説本を購入。
続く