ドクター安達の沖縄平和旅行記 その5

2011年11月18日(土)那覇曇り 気温12〜15℃
 7:00起床、7:30朝食、8:00にはバスに乗って出発。2日目は、普天間飛行場、嘉手納基地、反戦地主牛舎訪問、辺野古と回り、米軍基地問題と反基地闘争について学ぶ企画。
嘉数高台より普天間飛行場をみる
 まず普天間飛行場が一望できる嘉数高台に向かう。今日の平和ガイドは、沖縄平和委員会の与儀喜一郎さん。車中でのお話。
大阪ではハシズムが猛威を振るっていますね。沖縄では、先週の宜野湾市長選で惜しくも伊波洋一さんが敗れました。当選した佐喜真氏は右翼の理論家で日本会議のメンバーです。石垣の市長の中山義隆氏など沖縄で若い世代が悪い方面で活躍しています。佐喜真氏は頭がいいです。基地容認派だが、選挙では態度を変える。宜野湾市民はころっと騙された。
昨年12月28日午前4時、真部郎沖縄防衛局長を先頭に防衛局職員が沖縄県庁の守衛室を訪れ、環境影響調査書の入ったダンボール箱16個を運び込みました。本当に姑息なやり方です。真部局長は、宜野湾市長選でも職員に選挙介入した。前田中防衛局長は、「犯す前にやると言うものはいない」発言で辞任した。本日、田中防衛大臣が知事と会談予定です。会談は非公開です。田中防衛相は失言することで有名で、秘密会談にしたのは防衛官僚が田中防衛相には喋らせないようにするためではないかと思います。
嘉数は沖縄戦最大の激戦地です。沖縄戦は本土決戦前の時間稼ぎだった。本土決戦に備えて皇居や大本営などを長野の松代に移す計画があった。そのための時間稼ぎだった。米軍は、沖縄戦中にもう普天間飛行場を作っていた。片っ端から接収し基地を作った。住民は捕虜収容所に収容した。1950年朝鮮戦争が始まるとさらに多くの土地が奪われた。
8:15喜数高台に。気球をかたどった展望台、沖縄が日本本土に比べ大きく描いてある。日本軍は、ここ喜数の戦闘で破れて南部へ撤退する。櫻はもう沖縄では終わりの時期。
喜数展望台に登る。左に米軍上陸の湾が見え、正面が普天間飛行場、すこし右にヘリが墜落した沖縄国際大がある。首里城の地下に日本軍司令部があったから米軍はこの湾から上陸した。兵器の差が歴然としていた。アメリカの戦車は弾をはね返す、日本の戦車は破壊される。そこで若い兵士が自爆攻撃、ランドセルに爆弾を入れて、戦車に突っ込む。艦船からはロケット砲撃、最新鋭の火炎放射器も使う。海から陸から18万人の米軍が上陸した。
今日は土曜日で飛行機が飛ばないそうだ。爆音がどのようにひどいものか体験したかったのだが、それはDVDで見ることに。展望台に上る。一昨日は77機が離着陸したと、与儀さん。2万円の双眼鏡で、この展望台から離着陸する飛行機を数えるのだそうだ。まさにバード・ウォッチングならず、フライト・ウォッチング。毎日毎日大変な作業を地道に行っているのに驚く。
与儀さんの準備したプリントで普天間飛行場の説明を受ける。
1945年4月に米軍が上陸し、のどかな農村地帯であったこの地を強制収用し、村役場、学校、9つの集落を焼いて基地建設を開始。2400mの滑走路から本土攻撃の軍用機が離陸した。
宜野湾市の中央に位置し、宜野湾市面積の24.4%、キャンプ瑞慶覧・陸軍貯油施設を含めると32.4%。市の発展の最大の障害となっている。
91%が私有地。地主数3031人(うち反戦地主12人?)。年間賃貸料65.22億円。基地従業員202人。
駐留部隊は第3海兵遠征軍海兵隊)第1海兵航空師団第36海兵航空軍で、ヘリ部隊が中心。イラク、アフガンに出撃した。常駐機種は、KC130空中給油機12機、C12作戦支援機1機、UC35機3機、CH46E中型ヘリ23機、CH53大型ヘリ4機、AH攻撃ヘリ5機、UH指揮連絡機4機。
1996年SACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)で全面返還を合意し、2005年大浦湾(辺野古)一帯の代替え施設設置で合意したが、県内移設反対の県民世論で思うように進んでいない。
 墜落事故は、1972年(沖縄本土復帰)〜2007年までに固定翼機墜落11件、ヘリ墜落75件(死亡73人、行方不明16人、負傷29人)。2004年8月沖縄国際大学にヘリが墜落し大惨事となった。
 騒音被害も深刻。1日平均騒音被害は上大謝地区が最高で59.4回。
 2012年にオスプレイ垂直離着陸機配備計画があり、県内世論は反対の声が大きい。オスプレイは「未亡人製造機」と言われるほどよく墜落するのだそうだ。
展望台を降りて、敷地内にある慰霊塔、トーチカなどを見て回る。沖縄には、沖縄戦で亡くなった人の慰霊塔が400近くあるそうだ。慰霊の文章を読んでみると、威勢のいいものもある。青丘之塔というのは、右翼の人がつくったもののようだ、と。その中で京都の慰霊塔の文言が最も評価されているという。それは、犠牲になった京都出身の将兵だけでなく、犠牲になった沖縄住民についても慰霊の言葉が記されているからだそうだ。
帰る道すがら、石敢當(いしがんどう、いしがんとう)があちこちにあり、説明を受ける。中国由来で「石敢當」と書かれた魔よけの石碑や石標だ。沖縄にはT字路や三叉路が多くあり、市内を徘徊するマジムンという魔物は直進する性質を持つため、T字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると、その家に入ってきて災いをなすという。石敢當は魔物の侵入を防ぐ魔よけだそうだ。9:35バスに乗り嘉手納へ向かう。