谷善と呼ばれた人

労働運動家・文学者・政治家として
“京のまち 京のひと 谷善の顔がある”
没後40年 激動の生涯をたどり現代に生きる谷善を再発見する!
第1章の書き出しを紹介します。
谷善は、1899年、石川県能美郡国造村字和気り219番(現能美市和気町)で生まれ21歳までの幼、少、青年時代をその地で過ごしました。谷善自身が書いた「わが経歴」(「釣りのできぬ釣り師」新日本出版社、1972年)の冒頭部分では、
 『加賀平野が白山山脈にくいこむ小さな谷の一つ、その山あいに藁屋fが百戸ばかり(中略)持地と小作を合わせて三反足らずの水呑百姓だった。父はリョウマチで一人前の労働ができなかったので、母が耕作のかたわら部落の茶わん山(陶器工場)のマキ運びなどをして家計を支えていた。まだ綿作りもあった。…』
(中略)谷善の生まれた和気は…1年の半分、美しい雪の白山連峰が望めます。そこから流れ出て国造村を通る手取川は、水害をもたらす暴れ川でしたが、豊かな水で加賀平野の稲作に貢献し、九谷焼の陶土を生み出してくれる川でもありました。…温泉(辰口温泉)も湧出するなど自然の幸に恵まれ、旧石器時代灯台笹遺跡をはじめ祖先が残した遺跡も数多く存在し、北陸地方での埋蔵文化財の宝庫ともいわれる土地柄です。
(中略)加賀における一向一揆は、応仁の乱の内紛をきっかけとして始まります。…加賀の国は100年余り(百姓の持ちたる国)となり、1580年石山戦争終了まで国人・僧侶の寄合による門徒領国が存続することになります。こうした中世の歴史的遺産は、住民の組織力、反骨的風土として受け継がれ、真宗王国における農民運動の基礎をもつくっていきました。
 …後に京都に出て共産党員として活動していた谷善が、東山区今熊野で警察に追われた時、辰口町出身の江口住職によって即成寺の納骨堂に10日間かくまわれていたというエピソードなども、加賀の血脈につながるように思えます。…

 谷口善太郎を語る会編 新日本出版社 A6版 202頁 1800円税別