被災から20年が経ちました!(3)

 被災した元町の会社からの帰途も道路は大混雑、迂回を繰り返しながら進んだ。「ガス漏れあり火気厳禁」の殴り書きの張り紙が目についた。灘区の青谷の妻の実家は大丈夫かと寄ったところ。地盤がしっかりしてるのか、付近も建物自体はあまり損傷はないようで、義母も義兄夫婦も無事で驚いて迎えてくれた。お茶をごちそうになり、朝から何も腹に入れてなかったことに気がつき、少しゆっくりさせてもらいテレビを見ながらこれからどうなるのかなどと話し合った。
 この時テレビで伝える犠牲者になられた方の人数が数人という報道があって、まさか!と見ていると、刻々と情報が集中され、みるまに三桁の人数になって、どれほどの規模の災害かと空恐ろしく感じたのを鮮明に覚えている。
 青谷を出ても車道はどこも大渋滞、何とかガソリンを確保と、何十台もが並ぶGS店の車列に加わる。満タンにはしてくれず、限定販売? 車と人の渋滞を縫うような形でようやく帰宅できたのが夜の7時か8時頃だったか。
 ところが家族が誰もいなくて、残ってたメモには近くの住宅公園の駐車場で車の中で寝る。子供が怖がって…。とある。その夜、広々とした駐車場の車窓から見えた月のなんと冷たく黄色に輝いていたことか!(T.MATSUOKA)