“まけねえぞ 東北”

“負けねえぞ 東北!” −その3
 西宮の7名のグループが、先日東北被災地を巡る4日間の旅をされました。【東北被災地の旅(2015/05/24〜27)見聞録】と題する紀行文と写真を寄せていただきましたので、下記にその行程とともに紹介致します。
4,原発事故はコントロールされている。」・・・一体、だれの言葉? 
(3日目・佐藤)
①行程
 石巻・・・女川原発・・・常磐自動車道・・・途中インターで降りる(山口さん仙台空港へ)・・・常磐自動車道・・・南相馬道の駅にてガイドの方と合流(小高区を中心に車で回る)・・・山越え(通行止めのため大回りをして田村市を目指す)・・・田村市へ(花の湯温泉泊)
女川原発 
  石巻のホテルを出発。女川原発に向かう。PRセンターは、バラ園、りんご園、ジャガイモ畑ときれいに見せるように手入れし?整備されている。庭に目を向かせ、大きな樹木の向こうの発電所 は見せないようにしているのか、発電所施設は見えず。
  急ぎ福島に向かうため、石巻方面に折り返す。途中の道路ですれ違うのはダンプばかり。海岸線の盛り土をするための山の土を運んでいるようであった。
  車を南相馬市に向けて進めるが、ガイドさんとの待ち合わせ時間に間に合わないことが分かる。山口さんの飛行機の時間も気にかかり、仙台空港付近から自力で向かってもらうことになり高速道路を降りたところで別れる。福島原発事故視察  
  南相馬道の駅で小高地区にお住まいの島尾さんと合流。島尾さんは、息子さんが料理屋の後を継いでくれるというので小高でがんばっておられる方である。私達の車に同乗してもらい、この小高地区を中心に現在の状況を目で確かめながら説明してもらう。
  車を南に進めながら昨日までと違った風景を目にする。茶色い盛り土ばかりを目にしてきたのに、福島は田や畑が青々、まるで家畜のいない放牧場。今なら田植えが済み、夏野菜が植えられているはずの土地が草地。放射線の影響で農業が再開出来ていない。草が生え放題の耕作放棄地ではない。多分雑草は刈り取ってある状態。田畑をもとの状態に戻すのは大変だろうが、いつでも農業ができるようにしているのではと思った。
  鹿島区、海が見える海岸近くの高台にある島尾さんの友人のお住まいに案内して頂いた。そこは松林、防風林が、地震前は見えていた見晴らしのよいところであった。今は一本の松のみ、(鹿島の一本松、レプリカではなく本物)が残る。津波により、その方の前の方や、少しひくい所にある隣の家は壊れ、亡くなった方もいるという。そこでも昨日に引き続き、津波のすごさ、恐さがよみがえる。
  車から見える家々は、きれいに直している家もあれば倒れかかったままのものもある。今の時期に家を直していないのは帰らない人であり壊す予定と言うことらしい。放射能汚染のため、今壊しても撤去もできない。20?圏内の物は燃やせないからという。
 来年4月がこの地区の帰還目標になっている。現在は日中のみ家に帰ってもよいが、夜は仮設に帰る生活をしている。正月、お盆、祭り、ゴールデンウィークのみ宿泊可能。家に帰ると、壊した家から移動したネズミが増え、布団は処分しなければならなかったらしい。自分の家に帰っても普通の生活はできないのだ。
 この町で目にした人は、除染作業をしている作業員、警備の警察官。しかし、至る所に「道路と家の間には許可なく入ってはいけない。」という印の柵、防犯のためらしい。普段は人がいないということだ。普通に家が並んでいる町なのに店はやっていない。車で移動しながら気が重くなる。開いている美容院があってほっとする。来年の4月帰還に向けがんばっておられるんだ。
 浪江町にも車を走らせてもらった。(町役場に?で問い合わせたときには、町に入ることはできません。との解答だった)かわいい家が並んだ美しい町並みだ。破損もしていない自分の家があるのにロックアウトされて帰れない。その無念さを思うといたたまれなかった。・・・(この3行、豆柄)
 小高地区は概ね除染は終わったということであった。住宅地の除染は「除染の案内」があり、拭き取り作業をし、その後放射線量測定し完了ということらしい。宅地から20?しかしてもらえない。そんな除染の仕方でよいのか。説明を聞いているだけでも不安になる。住民の方はどんな思いか。
 除染された不要物は「黒い袋」に集められ、「仮置き場」に運ぶ。田畑であった場所に集められ、その上をさらに大きな黒いシートが掛けられていた。それを「中間貯蔵施設」に移す予定。中間貯蔵施設がどこになるかまだ決まっていない。最終貯蔵場所も決まっていない。
 車で移動中、山のような黒い袋の塊、その上を覆う大きな黒いシートが至る所にあり、そればかりが目についた。人家から離れたところに置いてあるといえども、その周りの放射線量はどうなっているのかも気にかかる。田村市に着くまでこの黒い袋の光景は続いた。

仮置き場には、この塊が5段に積み上げられている。
 最後に小高町の歴史や文化についてもお話があり「相馬野馬追」の祭りや史跡を案内して頂く。きれいに清掃されている町並みを後に「南相馬道の駅」で島尾さんとお別れする。
 こんな大変な被害に遭いながら、落ち着いて、ずっと明るい表情でお話し下さった島尾さん、家に帰り、頂いた資料の中に島尾さんが書かれた絵本「未来への伝言 その一」(小高語り部教本作成委員会発行)が出てきてびっくり。本を読んで、あらためて、想像を絶する体験をされたんだということが分かった。また、子どもが分かるように絵本にまとめるなど、いろいろな活動をされ、その前向きな生き方は学びたい。
 その後書きに 
    私たちは、おだかを離れ避難生活を続けています。
    慣れてはならない場所で、生きていくために生活しているのです。
    家族一緒に生活できることを願って、頑張っているのです。
    ごめんなさい。
    自分の町おだかにかえりたいのです。
先ずは東北に行くことが応援できること!!になるのでは。