中国西安たっぷり満喫5日間の旅 

 国際ツーリストビューロー  宋 敏
 10月18日から10月22日まで、「中国西安たっぷり満喫5日間の旅」に行ってきました。
かつて長安と呼ばれた古都西安は、陝西省省都であり、関中平原の中部に位置し、北は渭河、南は秦嶺山脈に臨む、西安市の人口は約800万人です。紀元前11世紀から紀元後10世紀初頭までおよそ2000年の間、前漢や唐など13もの王朝の都が置かれ、秦の始皇帝前漢武帝、唐の太宗、則天武后、唐の玄宗楊貴妃など、歴史上のヒーローやヒーローインなど多くの物語を生み出ました。
また、シルクロードの起点としても有名です。前漢の外交使節として派遣された張騫やインドまで仏教の経典を求める旅に出た玄奘三蔵法師)など、旅人たちはこの地を出発しこの地に戻ってきました。
更に、日本と西安との交流も古い。隋唐時代には日本から遣隋使や遣唐使は派遣され、日本の文化にも大きな影響を及ぼしました。
  1日目 10月18日(火) 
関西国際空港より中国東方航空2060便(10:20発)で(青島経由)西安咸陽国際空港へ。約5時間30分の空旅西安咸陽国際空港に到着後、現地ガイドが迎えに来ており、専用車で西安市内へ移動。
西安市内に向かう途中、前漢第四代景帝(劉启前157年〜全141年)とその皇后を葬った合葬墓である『漢陽陵博物館』を見学しました。陽陵は約20年間の発掘で、20㎢の範囲から200余りの副葬坑と5000余りの副葬墓が見つかり、その中から武士や女官などの陶製品が発見されました。陽陵の見学が終わったら、綺麗な夕陽に見送られながら私たちは西安市内へ向かいました。ラッシュアワーで大変渋滞していましたが、無事に夕食会場に着きました。
美味しい西安料理を堪能した後、音楽とともにライトアップされた『大雁塔広場』を鑑賞しました。とても幻想的できれいでした。忙しい1日でしたので、早めにホテルへ帰ることにしました。
2日目 10月19日(水)
今日はお墓巡りです。
まず、西安郊外にある唐の第3代皇帝高宗と、中国唯一の女帝となった則天武后(624年〜705年)の合葬墓『乾陵』へ。
乾陵は、神道(墓前にいたる道)に通じる18の平台(踊り場)を持つ526段の石段や神道の石柱である華表、伝説上の動物翼馬(ペガサス)、馬と馬を引く人の石像、『述聖記碑』や『無字碑』、首を切り落とされた『六十一蕃臣』などがあり、広大な規模でした。
そして、乾陵の主要な副葬墓のひとつである高宗と則天武后の孫娘で中宗の娘である『永泰公主墓』へ。(永泰公主は17歳の時則天武后の情夫に対する批判を口にし、夫とともに殺されてしまった)陵墓の参道や四方の壁には壁画が描かれており、破損したり色あせたりしているが、保存状態はとてもよかった。昼食は近くのレストランにて西安料理を頂きました。
 午後、後漢桓帝から霊帝にかけての時代に創建され、約1800年以上の歴史をもつ古刹『法門寺』へ。約2000年前、インドのアショカ王が仏法を広めるため、仏舎利釈迦牟尼の遺骨)を各地に送り、塔を建てて安置したという言い伝えがあり、法門寺はその場所のひとつである。創建当時は阿育王寺と呼ばれていました。
証明されたのが1987年、明代に建てられた法門寺を再建する際、1100年余り密閉されていた地下宮殿が見つかり、地下室部分や指の仏舎利などの宝物が発見され、伝説とされていた話が実話だった。仏舎利を納めていた八重になった小さい宝箱も展示されており、世界的に有名な仏舎利を見ることができ、本当によかったです。
次に見学したのは、前漢の第7代皇帝武帝の陵墓である『茂陵』へ、(茂陵の高さ46.5m、東西39.5m、基底部の四辺が240mもある)。まことに大規模でした。その隣には、匈奴征伐で活躍した霍去病のお墓があり、現在は茂陵博物館となっているが、規模の大きい石刻群と4000点以上の文化財を収蔵されていました。
お墓巡りの後、西安市内へ戻り、火鍋料理を美味しく頂きました。
まるでタイムスリップしたような1日でした。

3日目 10月20日(木)
 朝陽を見ながら、美味しい朝食を頂いた後、西安観光の最大ハイライトである1987年世界遺産に登録された『秦始皇兵馬俑博物館』と『秦始皇帝遺址公園』へ。
 先ず、シャトルバスで『秦始皇帝遺址公園』へ。秦始皇帝遺址公園には中国最初の皇帝である秦の始皇帝(秦始皇帝は13歳で即位し、およそ10年間で中国を統一し、中央集権体制や全国の法律、文字、度量衡を統一したりするなど中国に大きな影響を及ぼした)の陵墓があり、皇帝即位後から埋葬地である驪山に陵墓用の穴を掘り始め、天下統一後は70万人の労力を動員して王墓の造営を行ったといわれています。始皇帝陵を見学してから、シャトルバスで戻り、兵馬俑見学へ。
 『秦始皇兵馬俑博物館』は1号坑、2号坑、3号坑、文物陳列庁がある。まず、文物(秦銅車馬)陳列館へ。銅車馬の展示室は暗くて、フラッシュが途切れることなく焚かれて大変でした。銅馬車は出土した順に、一号車、二号車と命名され、4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられており、車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立った。2号銅車馬は、安車または轀輬車といい、正座した御者1体が手綱を引いた。車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれていました。
 それではいよいよ1号坑へ。1号坑は総面積約1万4200?の中には2000体の武装した兵馬俑が38列にわたって並び、見学者も本当に多く、写真を撮るのも精いっぱいだったが、時間をかけて前列に並び見学しました。真下にある兵馬俑は本当に圧巻的でした。
 2号坑は1号坑の北側20mの地点にある総面積は約6000?の坑道。ここの兵馬俑は歩兵隊や戦車隊など構成され、3号坑は1号坑西端の北25mの地点にあり、総面積は約520?と最も小さく、兵馬俑の最高指揮部隊に当たると考えられる場所だそうです。兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されていますが、兵士像は平均身長178?と等身大であるうえ、顔の表情も一体ずつ微妙に違います。全体規模は2万m2余におよぶ、極めて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、みんな東を向いていることや製造技術のすばらしさを知ることができました。歴史を感じま す!
 『秦始皇兵馬俑博物館』の中にあるレストランにて昼食『西安名物刀削面』を頂いた後、ザクロジュースを飲みながら(臨潼区兵馬俑周辺はザクロの産地である)兵馬俑を後にしました。
 昼食後、秦始皇兵馬俑博物館の近くにある楊貴妃が温泉浴したところ『華清池』を見学した。『華清池』は唐の天宝年間に作られた華清宮で温泉は池ほどの大きさになり、宮廷内に設けられ、当時の皇帝である玄宗の避暑地であり、玄宗楊貴妃のロマンスの舞台でも有名です。また、1936年の西安事件で国民党の蒋介石が滞在していたことでも知られています。敷地内には温泉が設けられていて、時間の関係で手だけ体験させていただいた後、西安市内へ。
 西安古城のシンボルである『西安城壁』へ。西安城壁の西門(西方のシルクロードを望む最大の城門でここから多くの人たちが西をめざして出発しました)から上ると市内を見渡すことができ、シルクロードの資料なども展示されておりました。夜は西安名物「餃子」を堪能した後、華麗な唐朝の歌や踊りのショーを鑑賞しました。

4日目 10月21日(金)
 朝食後、三蔵法師が翻訳に取り込んだ場所である『大雁塔(慈恩寺)』へ。慈恩寺は唐の第3代皇帝高宗が母である文徳皇后を供養するために建立した仏教寺院です。院内に立つ四角7層、高さ64mの塔が大雁塔であります。大雁塔は玄奘がインドから持ち帰った大量サンスクリット語経典や仏像などを保存するため建立されたそうです。大雁塔を見学したあと、3000点もの逸品が展示されている『陝西省歴史博物館』へ。
 伝統的宮殿様式の外観をもつ『陝西省歴史博物館』は中国で最も施設が整っている博物館のひとつである。博物館は広くてゆっくり見ようと思ったら1日でも足りません。兵馬俑則天武后の母である陽氏の陵墓から出土した巨大な獅子像など見学しました。
 昼食は西安名物である『羊肉泡馍(ヤンルーポーモー)』を頂いた後、町の中心に鎮座する重要文化財である「鐘楼」や小物を扱う「化覚巷」、イスラム教徒である回族の文化を見ることができる「回民街」を散策し、太鼓の音で時を告げていた『鼓楼』に上り、西安市内を見渡した後、日本と中国の交流の古さを物語る輿慶宮公園にある『阿倍仲麻呂記念碑』を散策しました。
夜は最後の晩餐ですが、西安名物の『西安ダック』を堪能した後、翌日出発準備のため、早めにホテルへ帰りました。
  
5日目 10月22日(土)
 今日は帰国の日です。モーニングコールは4時半、5時半出発。西安咸陽国際空港中国東方航空521便にて上海浦東空港で乗り継ぎ、帰国の途へ。
 今までずっと順調な旅でしたが、最後の段階の上海浦東空港で飛行機が約6時間遅れましたが、何とか無事に帰国することができ参加の皆様のご支援とご協力に感謝致します。
 今回の西安の旅は、中国の歴史や文化、食などについて新たな視点から本当に色々と勉強になりました。これからも中国と日本の架け橋になるためにもっと勉強しなければならないと思います。