お好み焼き屋」からのナガサキ

 妻は現在2ヶ月に一回定期検診に夜、通っている。
検診の後薬局の製薬、妻は錠剤が飲めず粉末にしてもらうため1時間ばかりかかる。
その待ち時間を近隣の店で夕食。 
 12月の検診時、それまでの中華料理店も飽きたので、他を探し偶然にそのお好み屋に入った。店内に朝日新聞があり、その日は水曜日。私は昨年5〜12月まで朝日新聞京都PR版「あいあい京都」(水曜日)に妻の事を連載していたので、女将さんにお好み焼きをほうばりながらそんな話をした。女将さんは妻と私の状況がわかったようです。
 明けて2月の検診時も訪ねる。
女将さんは自分から妻の介護の事など話かけてきました。そして、自らの生い立ちなど。
小学2年の時長崎で見た原爆の炎、中学の同級生がやがてその模様を絵本として出版(「悲しい顔のマリア」)し、今でも大事に持っている事、1597年豊臣秀吉による宗教弾圧で京都から長崎への「26聖人」の800キロ殉教の旅などなど…。
 私はいつもの勘で、この場所でこの近隣の人々と女将さんの話しを聞けば面白いと思い水を向けると女将さんも即OK。
果たしてその当日、10人も入れば一杯の店なので、お誘いする人数や人士の選択に気を使いつつ、うまい事にぴったりの人数。「被爆60年企画」を模索する妻が受診する病院関係者は「こんな近くにそんな人がいたとは…」。また病院向いの印刷所の女性は「悪魔の飽食」市民合唱団員。「日中15年戦争」研究者とのお出会いなどなど、わずか10人の参加者同士の巡りあい、奇縁がおもしろかった。
女将さんはこの日のための手製の被爆時の地図を、壁の油で黒ずんだメニュー短冊の上に張り出し熱弁した。
市井の名もない一女性の幼い頃の強烈な体験と貴重なお話。
平和、憲法九条を守る我々の取り組みは、案外こんな所の、気付かなかった足元の、こんな話、人々のこんな出会いから始まるのではないでしょうか?

富田秀信