藤沢周平の作品と人物に触れて…その7 【郷里の昨今…文学碑について】

KokusaiTourist2008-04-17


 いま、藤沢周平とその作品が“志たかく情あつい”歴史・時代作家、作品として新たな注目が集まっています。そうした作品を産み出してきた彼自身のことばを聞けば改めてそのいまの評価と注目が理解できます。いくつかを紹介します。出典は、彼のエッセイ集“ふるさとへ廻る六部は”です。

『ふるさとへ廻る六部(巡礼)は気の弱り』 山形出身の藤沢周平が初めて青森、秋田、岩手へ旅した時の気持ちを自嘲的に表現した古川柳


 …(前略)…
その執筆者〈由〉氏は、さきのコラムに同意を示しながら、しかしと筆を改めてつぎのように書いていた。近年は文学碑が急増して県内(山形県)でゆうに八百をこえ、いまやせっかくの景観をそこなって文学碑公害の一歩手前にあること、そして文学者にとっては作品がすべてで、文学碑は第二義的なものであると言い、たとえこみの山に覆われようと何ほどのことでもないと〈由〉氏は述べているのだった。

…(中略)…

むかしの城跡を利用した公園にある文学碑といえば、以前は高山樗牛の碑ぐらいではなかったろうか。その樗牛の碑も、りっぱな石碑ではあったが公園の隅におかれてあまり目立たなかったように思う。
 そして公園は櫻の季節とか、大きな祭のときとかには屋台店が出て人がごった返し、またサーカスや地獄、極楽などの小屋が三つも四つもかかるものの、その催しが終わればがらんとして何もない場所だった。人が集まり人が散るだけの場所として開放されていたのである。沢山の文学碑は、公園が持つそういう雰囲気を少し変えてしまったように見えた。そのことに私は、軽いショックを受けていた。文学碑というものについては、私は何の知識も持っていないけれども、句碑といい、歌碑といい、あるいは詩碑というものは、やはりそこにあるだけで何ごとかを主張しているものなのではるまいか。
 その感じが少しわずらわしく、私には公園がむかしの大らかな開放性を失って、いくらか教訓的に変わったように思われたのである。こういうことが文化的だと思われると困るなとそのとき考えたこともおぼえている。

…(中略)…

ところで私は、このコラムを読んで大筋のところでは〈由〉氏のいさぎよい意見を支持したのだが、また若干べつのことを考えていた。本人が、自己顕示欲から文学碑を建てたりするのは論外である。また、地方自治体のような行政機関が、文化事業の一環として文学碑をつくるのも、あまり関心はできない、碑には心、さきのコラムが言う「おもい」が必要で、事業とはちがうことだからである。…(後略)…(「民主文学」昭和62年4月号)