JR事故から3年、いま思うこと。

KokusaiTourist2008-04-25


 あの事故から3年経った。率直なところもう遠い過去の出来事のように感じる。すでに私の中であの事故は「風化」してしまったからか…?そうではないはずである。月に1度くらいはJR宝塚線に乗って現場のそばを通ることがあり、その時には今は誰も住んでいないあのマンションを必ず見つめ事故のことを思い出すし、犠牲になったなじみの散髪やNさんの奥さんのことも、ご主人に散髪してもらいながら話題にもなる。昨年だったか、TVドラマになったNさんは、ご主人と息子さん二人でがんばっておられる。私にとってもあの事故は、日常の身近にあるはずであり、忘れてはならないものである。
 事故以来、JRの体質は変わったのか?「安全第一」を口にはしても、実態は相変わらず利益拡大第一の道を走っている。安全輸送こそ最大の社会的責任であり貢献であることを忘れ、スピードや車両の「豪華」さを競い合い、航空会社とシェア拡大にしのぎを削っている。それだけでなく、駅構内にコンビニやホテルなどを増やすなど、本業の安全な鉄道事業をおろそかにしているのではと感じる。
 以前から気になる車内放送がある。事故などによる列車遅延を知らせる時に、「人身事故」という表現を「好んで」使っている。「不要な想像力」を乗客に駆り立てる耳障りな放送というだけでなく、遅延の原因が鉄道でなく外部にあることを言いたいがための弁解に聞こえるのは私のひねくれだろうか…?「人身事故」が多いというのは、今の貧困・格差社会がその背景にあるのは間違いない。そういう事故があったというのを車内や駅で聞かされて、その人にどんな事情があったんだろうか、何とか防ぐ方法はなかったんだろうかと多くの人が辛い思いを抱くのを禁じ得ないだろう。そういう社会問題でもある事柄の解決策を考えることは当然必要であるが、ただ列車の遅延の言い訳、弁解で「当事者」でもあるJRから聞かされるのはまっぴらである。
 競争・市場原理が最優先される「新自由主義」が鉄道や航空事業にはびこり、事故が「構造的」に起きるようになってしまっている。高速交通機関での事故はすぐに“いのち”を失うことにつながる。この分野での規制緩和、検査の下請け化、人減らしは何のために、誰のためになされようとしているのか…私たちは、厳しく見つめ声を上げなければならない。
 JRをはじめ運輸事業者は、自らの社会的使命を本当に噛みしめ、運んでいるのは物ばかりでなく命と社会性のある人間であることを肝に銘じ、業務に関わる人達の思いが十分発揮できる安全最優先の企業体質を作っていって欲しい。そして、国にはそういう視点で監督行政をすすめさせ、決して民間まかせ、企業まかせにできる分野でないことをわからせなければならない。そのことが、事故の犠牲者に報い、ふたたび大事故を繰り返さない道であると思う。その方向で私たち自身も力をあわすことがあの事故の風化を止めることであると思う。
(T.MATSUOKA)