「美徳」の敬遠①

藤沢周平の作品と人物に触れて…その10 
 いま、藤沢周平とその作品が“志たかく情あつい”歴史・時代作家、作品として新たな注目が集まっています。そうした作品を産み出してきた彼自身のことばを聞けば改めてそのいまの評価と注目が理解できます。いくつかを紹介します。出典は、彼のエッセイ集“ふるさとへ廻る六部は”です。

『ふるさとへ廻る六部(巡礼)は気の弱り』 山形出身の藤沢周平が初めて青森、秋田、岩手へ旅した時の気持ちを自嘲的に表現した古川柳

私が書く武家物の小説の主人公たちは、たいていは浪人者、勤め持ちの中でも薄禄の下級武士、あるいは家の中の待遇が、長男とは格段の差がある次、三男などである。つまり武家社会の中では主流とは言えない、組織からの脱落者、あるいは武家社会の中で呼吸してはいるものの、どちらかといえば傍流にいる人びとなどを取り上げているということである。
(…中略…)
 小説の中に勝手に設定した人びとをぶつけあって、そこから派生する、ごく人間的な、人生の哀歓とでもいったものを記述すれば足りる。そのつくられた小説世界の中で、作者も読者もいっときの虚構のたのしみを共有できればいいので、物語をつくる私の意図は、それ以上でもそれ以下でもない。
 もっとも、それだけの小説に過ぎません、といっても私は自分の小説がそういうものであることを、肩身狭く思っているわけではない。時代物の小説には、事実の追求をたのしむ小説(こちらを歴史小説ということもあるが)と、虚構の面白味をたのしむ小説との二種類があっても、どちらが高級だとか低級だとかいうものではなかろうと思うからである。
(…中略…)
私が肩身が狭いのは、いまだに読者の胸をふるわせるような物語を書いていないというだけである。
 とにかく、書く小説がそういうものであるので、たとえば武家物の小説でも、主人公を武家の格式にしばられない人物に設定することが、物語をすすめる上でつごうがいいことはたしかである。人間的な感情や行動をつとめて抑制するのが建前である主流の武家が主人公では、たとえつくり話にしてもなかなか書きにくいという面がある。これが私の小説に、浪人者、下級武士、武家の次、三男などが多数登場してくるひとつの理由である。
(…中略…)
 私は、武家社会の主流を書かない。書けば武家の格式、日常的には武家の作法と呼ばれたもの、また背景にある武士道というものに触れざるを得ないだろう。この場合、儒教的モラルが武家の規範として確立された徳川政権下の時代を言ってるわけだが、江戸時代が、そういうモラルの日常の細部まで形式化したことで成り立っていた封建社会だったことを考えれば、そのことを抜きにして時代の主流にいた人びとを書くことは出来ないだろう。そこが苦手である。