安武ひろ子さんの歌集“いのち愛おしく”に思うその2

KokusaiTourist2009-01-07

 安武ひろ子さんが歌集第4集“いのち愛おしく”を発刊されました。その歌集の感想を、機会をいただき同人誌“はばたき”(兵庫文化クラブ発行)第11号に掲載していただきました。編集責任者のご了解を得て当ブログに転載します。歌集ご希望の方は取り次ぎさせていただきますのでお申し出ください。“はばたき”もご希望の方はご連絡ください。
平和希求と人間讃歌、楽天的信念が道を生む
―安武ひろ子さんの歌集「いのち愛おしく」に思う―
松岡 武弘  
1月6日その1より続く
旅は平和へのパスポート
※人々との交流が平和のヒューマンネットワークに  「旅は平和へのパスポート」といいます。いま、憲法9条が世界で注目されている時代的に言えば、私たちは「旅と“9条”世界をつなぐ架け橋に」「“9条”で守ろう旅の安心、世界の未来」と声を上げています。
平和でなければ旅は出来ない…平和な環境は旅にとって前提というだけでなく、人としての生活、いのちの尊さ、環境の持続を考えるなら、知恵と声を出し行動を起こして人間は平和を守らねばならない。
旅は平和を創り出し守る力をもっています。ことば、歴史、環境、文化が違う異国の人々との交流、相互理解が海を越えて平和をつむぐ力、戦争抑止の意志を育てヒューマンネットワークができる。旅は、平和へのパスポートといわれるゆえん。安武さんの旅の歌は、そのことを語りかけています。

 数多(あまた)の命で贖いたりし九条と語りてゆけば胸つまりきぬ
 日本にもグアムにも基地は要らぬというチャモロの人たち素朴で優し
 許せるが忘れはできぬと民族の痛みの歴史をガイドは語る
 歌いましょうと元慰安婦は鳩ポッポを巧みに歌う明るき声で

※「軍国少女」から平和のメッセンジャーまで
 安武さんは、世界を旅するなかで、いつも“9条”を考え平和のメッセンジャーの役割を担ってこられました。労組活動家、国会議員、一市民として誰にも負けない熱情と行動力で半世紀をゆうに越える反戦、平和のための活動をされてきた安武さんならではです。
国内を旅しても海外に出ても戦争はダメ、平和でなきゃ!9条を地球の宝に!との声を自らの内にも外に向かっても呼びかけ続けて来られた。それは、「軍国少女」を経て“9条”の価値を文字通り体感され、いま“9条”に敵意を抱く勢力の執拗な攻撃を止めなきゃの決意が並々ならぬものだからでしょう。

 「大変だ」父の声が上ずりぬ十二月八日朝餉の食卓
 「神戸に焼夷弾集中」、「市民の健闘祈る」ラジオはぷつりと
 軍国少女のわれも『係が違うわよ』と赤紙配り拒みしことも

 反戦のわが意思貫き生き行かん迎える初日は街を染めゆく
 今もなお地球に絶ざる飢え戦争この愚かさを止めねばならぬ
 銃口を塞ぐ盾にも我ならん街宣マイクはしかと握りぬ
 七九年の生涯かけたお願いと演説結びぬ今日誕生日

初当選、八鹿事件、大震災
 私自身の安武さんのおもいでにそいながら
※脈々と受けつがねば初当選の力ふたたびみたび必ずや
 1974年、参議院議員に初当選。“70年代の遅くない時期に民主連合政府を!”が提起され、大企業の社会的責任を問う声が日本列島を覆いつくす「革新の時代」であったとはいえ、3人区の兵庫県で100万近い得票で議席を獲得。安武さんの市民、弱者の目線と心を持ちながら、あの迫力、説得力ある芸術的ともいえる演説、候補者を先頭に心ある県民の熱意が押し上げの力になったのでしょう。私もささやかながらお手伝いをいたしました。
 我が当選の年に生れし青年と肩並べ訴う憲法の危機
 我が座せし議席も写れる参議院いま教基法可決身は震え来る

※暴力支配の無法地帯で真相を明らかにし、断罪させた力!
 同じ1974年11月の「八鹿高校事件」。部落解放同盟浅田派の不法な暴力支配が横行し無法地帯と化した朝来、八鹿の街中。現場にいて、当選間もない安武さんの駆け巡る姿に感動したものです。マスコミも警察も教職員集団への凶暴な暴力事件をまったく取り上げない異常な状況。
心ある国会議員が危険をかえりみず真相解明と厳正な処置を県や国に求め告発し続けたことは、「先生を帰せ」と唱和しデモする生徒たち、不安を隠せない町民の方々、現場でたたかう人々を大きく励ましました。12月1日八木川の河原で開かれた暴力反対の18,000人の町民大集会と町中でデモ隊を迎える町民の祈りにも近い期待を込めたなまなざしは安武さんのご奮闘とともに忘れることは出来ません。

※被災者すべてが共感します
 安武さんが中央委員会勤務を終えて帰神直後の1995年1月、阪神淡路大震災発生。
 かの朝もかく寒かりきとテレビの言うわれに寒さの記憶あらざり
 忘れなど出来ざる思いしかれども忘れ果てたし大震災は
 集いたればかの日の温もり甦る被災地に溢れし優しさいたわり

 私は西宮市で被災し、その朝すぐに車で職場に向かいました。無残にも崩れ落ちた芦屋、東灘の大混乱の中、幾度も負傷者を病院に送り届けながら、元町の職場にたどり着いたのはすでに昼前でした。4階の事務所はすべての物が倒れ飛び散り足の踏み場は全くありません。私自身と仕事の方向に大きな影響を与えた「事件」です。(続く)(T.MATSUOKA)