平松道生君の“突然”の死に…

  26日夜突然、平松道生君急逝の連絡を受けた。驚きを禁じ得なかった。7月の酷暑の時だったか、彼が事務局長を務める三木民商の事務所を訪ね久しぶりに旧交を温めたばかりだった。映画『いのちの山河〜日本の青空2』の製作支援の依頼に行った時に、彼が淡々と話すことに返す言葉もなく、激励になったかどうか分からんような会話しか出来なかったのが今も思い返される。「弟の手術のため輸血で検査を受けたら同じ病気やと分かってな…」「医者はこのままだとどれだけ持つか言うてる…」「8月に手術するつもりやけど…」
 それでも彼は、「ええ映画やし協力するで!」と言うだけでなく「三木では労音が元気やから紹介するわ」と、労音事務所の地図までコピーしてくれた。早速訪ねた労音の事務所での「成果」を翌日電話でお礼を言ったのが、「最後の会話」になってしまった。
 その日、彼と約束した時間より早く着いたので、昼を済まそうと近所の喫茶店に入ると偶然にも、彼が民商の会員さんと食事中。我々(映画製作の担当者と同行)も昼食を済ませ、先に事務所に上がった彼を追っかけるように勘定をしようとすると、「平松さんから頂きました」と喫茶店のママさん。そんな男だった。
 彼との出会いは、70年代半ば、彼が自らの解雇撤回闘争に立ち上がり全商業労働組合に加入した時、「相当ヤンチャな男」やなとの印象だった。それから、何年か一緒に県支部の執行委員の時代を過ごした。そんな間に、いつの間にか?同じ全商業の仲間で「マドンナ的存在」だった順子夫人と心を通い合わせ、周囲は驚きと羨望に包まれたのを覚えている。
 その後、民商に職を得て彼らしいスタイルで垂水、三木民商の発展に尽くしたのでしょう。久しぶりに会ったその時にも、「ゴルフしながら会員拡大しとるんやで…」などと言っていた。「息子が民商の『商工新聞』の読者拡大でえらい頑張っとるわ!」と静かに誇らしげに語っていたのも印象的だった。
 入院中の事務局のカバーを兵商連とも相談せなあかんしな…と言いながら知事選の直後に入院したのでしょうか。その後の経過を尋ねる機会もないままに突然飛び込んできた悲報でした。28日の別れの式での順子夫人の挨拶で経過を知り残念でなりません。手術は成功し職場復帰の話もしていた矢先の肺炎発症?での突然の旅立ちだったとのこと。順子夫人や息子さんたちの悲しみは如何ばかりか…
 その深い悲しみを胸に秘め、参列者に向かって「けなげに淡々と」なされた順子夫人の挨拶に心が震えました。彼は「ヨメさんが何回も候補者やっとるし、近所で悪いことでけへんで…」と言ってたけれども、衆参をはじめ候補者活動に専念した彼女を誇りにも頼もしくも思っていたのは彼の言葉からもうかがえたものです。いつもとはまったく違う挨拶、突然おそってきた出来事に「信じられない」と言いながら、どのように心の整理を付けられたのか…
 「主人は人が集まり賑やかなのが好きでした。今日もきっと喜んでいます。」「高校中退し、職を転々とし三菱傘下の企業で解雇撤回闘争を闘う中で党に出会い、その後民商活動に一生を捧げました」。最後に心に残った順子夫人の言葉、「これからも人と社会に対して真摯に生きていきたい…」。
 『いのちの山河〜日本の青空2』は完成し、引き続き製作支援運動と平行して上映運動が始まろうとしています。新政権は、「後期高齢者医療制度」を即時廃止でなく、自らの公約に反し「先送り」しようとしています。映画の製作支援運動と『後期高齢者医療制度』即時廃止の運動の相乗的な発展をつくっていくのが、彼の遺志に応えることだと肝に銘じています。彼との最後の別れはそんな決意をさせるものでした。
 中小零細企業を守る運動の発展など、し残した仕事はたくさんあるでしょうが、これからの我々の運動を天上からしっかりと見守ってください。
 松岡武弘