【命の査証】

KokusaiTourist2010-02-21

リトアニア杉原千畝を偲びて詠む Ⅱ

安武ひろ子さんhttp://d.hatena.ne.jp/KokusaiTourist/20091212から“命の査証”と題する短歌が届けられましたので、ご了解の上、掲載させていただきます。


リトアニアを追われる汽車の窓からもなお渡されゆく命の査証


動き行く汽車の窓より追いすがる群集に渡りし最後の一枚


かの人ら救ってあげてと言いし妻その子ら古りし写真にほほえむ


抑留の苦難に耐えて帰国せる千畝を追放 外務省は


杉原氏は在職せずと言い張りし他国に対する外務省回答


杉原氏の名誉回復は死後五年戦後半世紀も流れしあととは


大学教授の地位すて記念館長のユダヤ男性のすてきな笑顔


ビザ書きしを後悔せずと穏やかにいいたる千畝の意思の確かさ


五万人のユダヤ人を虐殺せる収容所も残るカウナスの街


バルト三国に刻まれしナチ・ドイツ・ソ連の犯せし傷跡深し
                                       (安武ひろ子)


2009年9月、国際ツーリストビューローはバルト三国のツァーを実施しました。
http://d.hatena.ne.jp/KokusaiTourist/20091014《添乗日記》
…ホテルのそばにはヴィルナ川がゆったりと流れ夕暮れの景色が美しい。翌朝はホテルのすぐ横にある杉原千畝公園へ徒歩で向かう。そこには千畝のレリーフと桜の木が250本植えられていて緑が美しい。
この旅の大きな目的であるカウナスにある旧日本大使館杉原千畝記念館』へ向かう。住宅街にある建物は木造の2階建てで1階が記念館、2階が日本語学校として現存している。記念館では15分のビデオ鑑賞、当時の状況やビザを発給した様子を分かりやすく紹介、実際にビザを書き続けた机が残されており壁にはたくさんの資料を展示。客間のような向かいの部屋には千畝の家族や生い立ちなどが紹介されている。
建物の外にはリンゴの木が植えられており、今も実をつけている。
…中略…あの時代背景に命がけでユダヤ人を救った彼の功績は簡単に言葉では言い表せない。そして彼はもう一度生まれ変わっても同じ決断をしたとビデオの中でも紹介されており、深い感動を覚える。
(添乗日記から)














「列島歌人」200号記念号には、“「列島歌人」200号のあゆみ”が紹介されていますので、下記に転載させていただきます。



「列島歌人200号の歩み

 「列島歌人」の前身「遠天」が創刊されたのは1968年であり、42年目にして200号を迎えることになりました。創刊者松井岩男氏はじめ、たくさんの先人の業績の上に今日を迎えることができました。
 創刊号の冒頭に「遠天のことば」という詩があり、

    人間回復のための短歌、その創作と普及
    はげしくつきあげるこの思いが
    私に短歌雑誌“遠天”をださせる

 と、書き出されており、署名はありませんが筆者は創刊者の松井岩男です。
 また、創刊号で松井は「人間回復」について次のように解説しています。
 「……結社が多く二三百も歌誌が出ているだろうか。その歌誌を存続させているのは、実はその主宰者でなくて、その雑誌によっている多くの作者たちなのである。……この読者が同時に作者であることが、短歌をひろく庶民のものにしているということを重くみるから、私は短歌に執着するわけなのである」
 そして自身の短歌の系譜として、明治の短歌革新、戦後直後の短歌復興期(「人民短歌」)の伝統の継承と書いています。「人間回復」を一貫したキーワードとしているのが創刊者の姿勢であることはその後の誌面編集に反映されてきています。
 創刊号の巻頭には元日本原水協理事長の安井郁の「血の塩の歌」というエッセイがあり、寄稿者に著名な方々のお名前があることからも創刊者の意気込みはかなりのものであったと思われます。
 発行後は決して順調なものでは無かったようで、月刊をめざしながらも隔月刊が定着するのはようやく12号(75年12月)ころからです。
 1980年になって誌名が「遠天」から「列島歌人」に変更されます。(42号より)。既に他に、同名の雑誌があったのが判明したからというものです。「列島歌人」という命名のなかにも発行者の思いがこめられていて、地方短歌誌の枠を越えたいという意図が伺えます。
 百号記年号で、小松ときさんがかなり克明な年表を作成されていますので、それまでのことのおおよそはそれを参照することができます。
 創刊者松井岩男は1981年76歳で亡くなり、その後は久保田千鶴子(50号〜100号まで)、石井敏子(150号まで)、古賀悦子(195号まで)と引き継がれてきました。
 出泳者は、創刊当時十数名から出発し、「列島歌人」に改名した頃50名程度でピークとなり、松井岩男没後は、40名前後、100号以降は30名前後となりました。
 熱情的な指導者を失ったことは大きな痛手でしたが、「人間回復の短歌」の旗印の下に、その後も県下の民主的短歌の砦として詠い続けて今日に至っています。

 195号発行(2005年12月)後、歌誌発行の継続が困難となり休刊、廃刊が検討されましたが、とりあえず例会用に「月報」(2010年現在46号)を出しながら200号まで来たのが実情であり、新たな発展方向を見出していくことが課題となっています。
生命生きてわれあることのありがたき祖国ふたたび焦土たらしめず   松井岩男(創刊号「広島」より)
                         (196号以後の代表・編集者 大中肇)