ドクター安達の沖縄平和旅行記 その6

KokusaiTourist2012-03-14

前回http://d.hatena.ne.jp/KokusaiTourist/20120310/p2
嘉手納空軍基地 普天間飛行場のすぐ北にあるキャンプフォスター(瑞慶覧=ずけらん)を左に見ながら、10:00道の駅「かでな」に到着。この4階の展望デッキに上り、プリントを見ながら与儀さんから説明を受ける。今日は土曜日で飛行機が飛ばないそうだ。今、常駐機の半数がグアムへ行って合同演習しているそうだ。
 嘉手納基地は、1943年9月日本軍が接収して飛行場を建設、翌年飛行場として使用開始。1945年4月に米軍が占領、6月には本土攻撃基地として使用。
 総面積は約19.95km²。日本最大の空港である東京国際空港羽田空港)の約2倍。約3700mの滑走路2本を有し、成田国際空港(4,000mと2,500mの2本)や関西国際空港(3,500mと4,000mの2本)に匹敵する。100機近くの軍用機が常駐する極東最大の空軍基地。基地の主力は1機125億円といわれるF15戦闘機が54機、KC135空中給油機15機など。約2万人の軍人・軍属とその家族が暮らし、学校、病院、教会、銀行、郵便局、スーパー、映画館、劇場、ボーリング場などが完備している。
 90%以上が私有地で、地主9006人、年間賃貸料252.18億円。基地従業員2768人。
基地を巡る状況:?爆音被害をめぐる第3次訴訟は原告23000人。騒音防止協定「夜10時から朝6時まで原則飛行せず」を米軍は守らず。種々の騒音被害深刻。?アフガン攻撃へ。?嘉手納弾薬庫に劣化ウラン弾40万発貯蔵(基地司令官が2005年公表)。?核兵器貯蔵疑惑(嘉手納弾薬庫内)ー1972年ニクソン・佐藤の密約あり。?思いやり予算で大型建築物、かまぼこ型格納機、校舎などを建設、などなど。
ウイキペディアによると、その他以下のような点を指摘している。      航空機墜落の危険:1994年4月のF15戦闘機墜落事故がある。件数は少ないとしても、住民の不安を解消するには至っていない。
汚染物質の漏出 :2007年5月に、航空機燃料約8.7キロリットルの漏出があった。1960年代〜1970年代、PCBを含む廃油を溜池に投棄。これらの汚染に関し、日米地位協定の定めにより、日本側の調査権は著しく制限されている。    
基地経済 :米軍専用施設があることによって、基地周辺整備資金あるいは基地交付金、調整交付金という名目で、国から自治体に補助金が支払われる。加えて、通称「軍雇用員」と呼ばれる、米軍が採用し人件費は日本政府が負担する職種がある。これは公務員と同等の待遇で、失業率の高い沖縄県では安定した就職先の1つとして重視されている。基地内の土木建築工事の請負や物品の納入販売などの経済活動などもある。数万人の隊員およびその家族、基地職員による消費は、地元経済にとって無視できない規模である。・・・したがって基地撤去には雇用を確保する青写真が必要となる。
10:50バスに乗り、嘉手納軍用地内の土地を取り戻し、牛舎を営んでいる反戦地主池原秀明さんのお話を聞きにいく。車中、ある日の普天間飛行場に発着する各機を撮影したDVDを見る。この日40分で27機が発着していた。
 与儀さんから池原さんの紹介がある。本土復帰半年前の1971年12月に結成された「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主の会)の事務局長で、沖縄市議会議員。反戦地主の会は、ガンジーに習って非暴力の運動手法を取る。土地は銃剣とブルドーザーで没収された。池原さんは法律をよく勉強して、合法的にアメリカから自分の土地を取り戻した。その手法には感心させらたと、与儀さん。
「核抜き、本土並み返還」が沖縄県民の要求だった。返還前には、155ミリ榴弾砲に核装備をしていて、放射能被害もあった。しかし、沖縄には今も核があると思われている。というのは、1993年のラロック証言でも明らかになったが、今だにNBC訓練(核生物化学兵器訓練)が行われているから。
基地あるが故の悲劇−人権侵害は後を絶たない。私たちは日米地位協定の抜本改定を要求している。昨年11月重大な事故をおこした米兵を本国で裁判しない場合、日本で裁判できるよう運用を見直した。これは懐柔策だ。
反戦地主:池原秀明さんの話を聞く 
 11:15牛舎に到着。嘉手納軍用地内にただ1人土地を返還させ牛舎を営んでいる。地図中央で灰色の米軍軍用地の真ん中に白く抜けて見えるのが池原さんの土地だ。 
 結成当時4万名中3000名の反戦地主の会を組織した。
公用地暫定使用法、地籍明確化法、土地収用法などで土地が奪われていたが、1982年米軍特措法ができて、本土並みとなった。今後土地を借りるに当たって地主の意見を聞くのが必要になった。実際は、知事や市長が代替えで収用の容認を行ってきた。 
 そこで豚舎を作ることにした。夜な夜な妻と二人でブロックを積み上げ1年がかりで豚舎を建てて既得権をつくった。見周りに来た米軍に見つかると逮捕されるので命がけだった。県の農業指導員だったので、牛舎を経営しようと思った。牛舎経営について防衛局と交渉したら、基地内に建物は建てられないという、しかしアメリカは軍用地内に建物を建てているよ、とくい下がる。建築基準法を調べたら、建て物とは、建築物と構築物の2種があり、建築物とは500m2以下で柱があって、台風や火事に耐えられるものとなっている。そこで牛舎を建てた。現在2000m2になった。
このような遵法闘争を行い1982年に土地を返還させた。電気を引くのに10人で蓄牛生産組合をつくり認めさせた。水は、ダム流域促進協議会をつくり水利権を取り戻した。このようにして、法律を研究して法に乗っ取って土地を返還させ牛舎を営んでいます。子牛を160頭育てています、と。地域にもいろんな養鶏や養豚の団地も作っていったそうだ。
 非暴力の手法で法律を勉強しそれを駆使して自分達の要求を実現するという、粘り強い闘いを続けてきた池原さんはじめ沖縄の人たちに驚く。戦前から戦後、復帰後もこのような不屈の闘いの伝統が沖縄にあるのだと、深く感じた。
11:45バスに乗り昼食会場へ向かう。車中、島袋ぜんゆうさんのおもしろい話を伺う。1977年5月に4日間土地の使用期限が切れたので、ぜんゆうさんは米軍基地内の自分の土地へ妻と子どもとアヒル2匹をつれていった。そこに「ここは私の土地です。許可なく立入り使用を禁ず」という看板を立てた。ニンニクを植え、アヒルを放った。アヒルは、自分の土地を越え米軍軍用地へと入り込む。米軍兵士がなんとかしろ、と言ったら、「アヒルには安保がわからないからね」と答えたそうだ。
 「軍用地主会も2つあります。基地容認派と基地反対派」。嘉手納弾薬庫の傍を通る。第2ゲートの前で一旦停止。ここから見える弾薬庫に核兵器が貯蔵されていた、という話。嘉手納基地に発着する機を収めたビデオ「嘉手納基地」を見る。
琉球村で昼食
 12:15琉球村。開業30周年を祝う看板が立っている。陶板焼きと細めんのうどん汁。医学生の南里さんが合流する。しばらく陽が差したので、あたりの花畑を回ってみたが、気温が低く蝶は飛んでいない。