中国湖南省平和の旅! その1

毛沢東の故郷、鳳凰古城と世界遺産「張家界」6日間の旅− 
国際ツーリストビューロー  宋 敏 
3月31日から4月5日まで、日中友好協会兵庫県連合会様主催の「中国湖南省平和の旅」に添乗してきました。
湖南省は、洞庭湖の南に位置することからこのように呼ばれています。また、長江流域にあり、省内には大小あわせて4,700あまりの河川が流れており、この中でもっとも長い川“湘江”は全長817kmで、この川の名から、湖南省の略称を「湘」ともいいます。また、湖南省の歴史は古く、多くの人材を輩出しており中でも現代中国に最も影響を与えた人物は毛沢東であり、中華人民共和国の成立に尽力しました。
1日目3月31日(月) 
 関西空港より中国東方航空730便(9:40発)で上海浦東空港へ。
 上海市内へ移動して昼食と市内観光の後、夕方には虹橋空港で国内線の中国東方航空5359便に乗り換え長沙へ向かう予定です。
 しかし、上海浦東空港に無事到着したものの一人のお客様が預けた荷物が出てこないのです。空港のインフォメーションに確認すると、税関で荷物の検査をしているので、しばらく待ってくださいと言うのです。30分〜40分経っても荷物が出てこないし、検査が終わっているかどうか不安で、何回確認しても返事がありません。1時間経った頃、乗り換えもあるし、昼食の時間や市内観光などなどを考え、現地の空港に送るように手続きを進めていたところで空港の係員が荷物を持ってきてくれました。ほっと一安心!


空港には現地ガイドの湯さんが迎えに来ており、専用車で上海市内へ移動、遅めの昼食と七宝古鎮を散策しました。虹橋空港で長沙へ向かう予定でチェックインを終え、待合室で待っていると、なんと「天候不良のため、飛行機が約2時間遅れる」とのアナウンス。
 湖南省対外友好協会との夕食交流会をやむを得ずキャンセルして、翌朝、湖南省対外友好協会の事務所を訪問することに変更しました。夕食は機内食で済ませて、長沙に着くのはかなり遅くなりましたが、大変な初日はなんとか無事に終了しました。
2日目 4月1日(火)
 朝一番、長沙市内にある湖南省対外友好協会の事務所を表敬訪問し約1時間交流しました。長沙市を後にして、車窓から菜の花畑や園田風景を楽しみながら、毛沢東の故郷「韶山」に着きました。
 毛沢東の家は竹やぶを背に、蓮池に面した土壁作りの平
屋で、居間、台所、食堂、両親、兄弟の寝室、中庭を挟んでブタ小屋、作業場など典型的な湖南省の農家の佇まいでした。 毛沢東の私塾旧址や毛沢東の遺品、資料、史跡などが沢山残されている記念館など見学し、昼食は韶山賓館で湖南料理を堪能しました。
毛沢東1893年12月26日生 - 1976年9月9日没)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家であり、また初代中華人民共和国主席でした。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席を務めました。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国しました。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあり、また現代世界史においても大きな業績を遺した人物とみなされており、タイム誌の20世紀の重要人物の1人に名を連ねている。更に毛沢東は、思想家や戦略家としても評価されており、詩人としても名高く知られている。
一方では、毛沢東の政策については現在でも議論の対象となっており、ある研究者は、毛沢東の引き起こした大躍進政策文化大革命のような、文化、社会、経済、外交に重大な損害をもたらした問題について非難するとともに、彼の政策による犠牲者を数千万と推定するとしている。更にマルクス主義ソ連社会主義を中国社会に導入しようとした毛沢東の政策は、産業の面において、結局失敗に終わったと論じている。】
 午後、湖南省寧郷県花明楼炭子沖にある劉少奇の故郷へ向かいました。
劉少奇の記念館や家を見学しました。記念館は自由分散型園林式建築で劉少奇の業績資料や歴史、写真など陳列されています。家は土木構造で、壁も土塀、屋根は半分小青煉瓦、半分茅葺の屋根となっています。 
 また、家の前には池があり、家の裏には山が隣接しており、居間、台所、書斎、両親、兄弟の寝室など全部で
21部屋があり、四合院式的な農舎です。更に故居を中心として記念館、銅像、展示物など含めて総面積は約40ヘクタール、建築面積は約2万平方メートルにも及びます。
 劉少奇は、1898年11月24日にここの地で産まれ、幼児期、少年期時代をここで過ごしました。1916年に長沙の学校に通うようになってからも、夏、冬休みをここで過ごし、仕事で地元に戻ったときにも、ここで1週間暮らしたそうです。
劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898年11月24日生 - 1969年11月12日没)は、中華人民共和国の政治家であり凱豊や胡服などといった別名も使用した。 第2代中華人民共和国主席などを務め、中国共産党での序列は毛沢東に次ぐ第2位であったが、文化大革命の中で失脚、非業の死を遂げている。1959年には劉少奇故居は省級重点文物保護単位とされ、一般公開されていたが、文化大革命期間に “実権派の最高指導者”とされ、その後1968年に除名、失脚してしまったため、故居は破壊され、文物は散失してしまった。後の1980年2月、中共11期5中全会で名誉を回復され、故居は復元され、書斎や寝室に写真の資料など数百が展示されている。同年3月5日に故居は一般公開され、1982年冬、�殀小平が「劉少奇同士故居」と直筆の扁額を贈っている。1988年1月、国務院は炭子沖劉少奇故居を全国重点文物保護単位に認定し、1998年12月劉少奇誕生100周年記念イベントがここで、盛大に行われた。】
夕方(17:20頃)、沅江へ移動。