西田敏行さんが復興への思いを語る

朝日デジタル版より
 大震災直後の岩手県釜石市を舞台にした「遺体〜明日への十日間」(2013年、君塚良一監督)という映画に出たことがあります。遺体の仮安置所の手伝いを買って出た、元葬儀屋の民生委員役でした。

 出演依頼に最初は「人の命は厳粛なもの。そんなことを商業映画にしていいのか」と疑問を持ちました。「震災を体験していない人たちに見て欲しい」という使命感で引き受けたのですが、撮影に入ってからも悩み続けました。
 本当の仮安置所では破傷風の危険もあるので裸足はダメらしいのですが、演技とはいえ遺体の枕元を土足でずかずか歩いて良いのかと思い、靴を脱いで裸足になりました。「死体ではない。ご遺体なんですよ」というせりふも強調しました。小さいころ、親戚の通夜で、母親がずっと遺体に語りかけていた様子を思い出したからです。
 震災から1年が経ったころでしょうか。釜石や同じ岩手県大槌町を歩きました。津波で大変な被害にあったところで、まだまだがれきが積み上がっていましたが、復興への光もわずかながら見えていました。
 でも、福島県は違いました。私の故郷は、県のちょうど真ん中にある郡山市です。震災から半月後、郡山で友人たちと落ち合って、太平洋岸の南相馬市に車で向かいました。高さ十数メートルある橋まで津波が来たと聞いて驚きましたが、それ以上にショックだったのが、人影がまるでなかったことです。事故を起こした福島第一原子力発電所から30キロほどの場所でした。
 福島から宮城へと流れる阿武隈川が、子どものころの遊び場でした。仲間と泳いでいる上流で、農家のおじさんがたわしでベコ(牛)を洗っています。気持ちよくなったベコは大量の小便をして、それが泡の山になって流れてくるんです。見張り役の子が「来るぞー」と叫ぶと、私たちは「わーっ」と逃げます。原発周辺では、そんな川遊びもできなくなってしまったのです。
 故郷にはかつて、「前の戦争ではえらい目にあった」と、太平洋戦争ではなくて戊辰戦争のことを指して言うお年寄りがいました。2年前の大河ドラマ「八重の桜」で私が演じた会津藩家老の西郷頼母(たのも)も、そうした「えらい目」にあった一人です。新政府軍との戦いで、足手まといになってはならないと、妻や子どもたちが自害してしまうのです。まじめ一方の福島の人たちばかりがなぜ、歴史的な苦難を背負わなくてはいけないのでしょう。
 それでも応援してくれる人はいます。例えば、秋元康さん。震災前にテレビ番組で知り合ったのですが、なんといってもAKB48の生みの親で、私とは住む世界が違う人だと思っていました。ところが震災後、「あの街に生まれて」という歌を作詞してくれました。震災から6カ月後、郡山市の野外コンサートで初めて披露し、その後、NHKの紅白歌合戦でも「ぜひに」と頼んで歌わせてもらいました。
 自ら立ち直る人たちもいます。私にとっては「常磐ハワイアンセンター」と呼んだ方がしっくり来るのですが、スパリゾートハワイアンズフラガールのみなさんは震災後、全国キャラバンをやってお客さんを呼び戻しましたよね。つらい時期に、よくがんばってくれたと思います。
 ハワイアンズのある福島県いわき市と、事故を起こした原発との間にある広野町に今春、「ふたば未来学園」という県立高校が新設されます。応募が募集定員を上回ったことを知った県教育委員会は定員を増やしたそうですね。私は縁あって、この学園の応援団の一員になっています。
 生徒のみんなに会ったら話したいことがあります。小学生のころ先生から教えられたことです。
 「車は左、人は右。それで本当に良いのか」と先生は尋ねました。「心臓は左にある。心臓が車に近くならないよう、左を歩いた方が安全だ」と言うのです。私は「人は右」というルールにそれまで何の疑問も持ちませんでした。難しい言葉で言えば、既成概念を打破することに未来があるのではありませんか。
 20年前に阪神大震災が起きました。4年前が東日本大震災です。その間にも、新潟や鳥取、いろんなところで大きな地震が起きています。日本全国どこに住んでいてもひとごとではありません。
 原発が再稼働されようとしている地域の人たちには特に言いたい。わが故郷・福島の人たちは「原発は安全・安心だ」とずっと信じてきました。でも、起こらないはずのことでも起きてしまうのです。「俺のところは大丈夫だ」と本当に信じていいのですか?(聞き手=福島総局長・森北喜久馬、写真=関田航)