満蒙開拓平和記念館を訪ねて


 長野県南西部の山あいの村「阿智村」に2013年4月25日「満蒙開拓平和記念館」が開館されました。近くに「美人の湯」と言われるほど良質の泉質を誇る昼神温泉郷があります。開館2年目の本年4月19日には、来館者数が6万人を達成、平和学習の拠点として位置づけされつつあるとのことです。
 中国東北地方にかつて13年間だけ存在した幻の国「満州国」。日本の全都道府県から約27万人の農業移民が「20町歩の地主になれる」「満州は日本の生命線」と夢を抱いて渡満したのが「満蒙開拓団」です。
 南米などへの海外移民とは違って、「開拓」と言いながらもその多くは現地の人々の土地、家でありました。「満州(国)」は独立国家とは言え、実質的には植民地的国家であり、満蒙開拓は現地の人々からすれば侵略の加担者的側面をもっていたようです。
 なぜ当時の日本は国策として「満蒙開拓団」送出していったのか。「日本からの人減らし」と、驚くことに現地でのソ連や抗日勢力に対する「人間の盾」としての役割を担わせる存在であったというのです。
 当時満州は、日本の防衛の最前線であり、日本軍(関東軍)の食糧、物資と兵士補充の供給基地ともされていました。突如のソ連軍侵攻時、青壮年男性は「根こそぎ動員」により徴兵されていて、開拓団には老人と女子供だけ、そして日本軍もいませんでした。日本軍の南下の戦略により、満州の3分の2が「放棄地域」とされました。集団自決、日本人に恨みを持つ中国人による襲撃など筆舌に尽くしがたい状況下に・・・
 終戦の年、開拓団を含む在満邦人は帰国できませんでした。「在外邦人は日本国籍を捨ててもいいから現地に留まって現地で生き延びよ」という非情極まりない当時の日本政府の方針でした。
 国策としての「移民」が国策による「棄民」となりました。それが戦後多くの犠牲と苦難を生み出しました。現地に残された「残留孤児」「残留婦人」、シベリア抑留からの引き揚げ、どうにか帰国できた人々も日本での再入植の苦難など「満蒙開拓」は「不都合な史実」として戦後あまり振り返られることがありませんでした。「満蒙開拓」の苦難の歴史を伝え、平和の尊さを次世代に語り継ぐ施設として、多くの日本人に訪ねていただきたいと思います。

アクセス 中央自動車道「飯田山本IC」から車で約5分 JR飯田駅よりタクシーで約20分
開館時間 午前9時〜午後4時30分 休館日 火曜日、第2.4水曜日
入館料  大人500円(団体20名以上400円)無料駐車場あり
記憶に残る言葉
★ある元開拓団員(女性)の言葉
「自分たちの都合で他人様の土地に行って自分たちだけが幸せになろうとしたのがそもそもの間違いだった。たとえ狭くても、日本の国内でみんなで分け合って自分の手のひらの中で幸せを探すべきでした」
★ある元開拓団員(男性)の言葉
 「終戦2週間前に召集令状が来て、そのままシベリアで3年間捕虜抑留どうにか帰国し、国内の山間部の開拓地に再入植。今度こそ本当の開墾の苦労をする中で、大切な農地、家を奪われた中国農民たちの悔しさ、悲しさがよくわかった。あれは日本の間違いであった。現地の人たちに本当に申し訳ないことをした」
 ★ある中国人青年の言葉
 「私は日本人は信用できない。それはかつてあなたたちのお祖父さん、お父さんが私たちの国を侵略したからでなくて、今の日本人がかつて日本がアジアで何をしたかを知ろうとしてないからだ」                         山口初美