“まけねえぞ 東北”

KokusaiTourist2015-06-29

“負けねえぞ 東北!” −その2
 西宮の7名のグループが、先日東北被災地を巡る4日間の旅をされました。【東北被災地の旅(2015/05/24〜27)見聞録】と題する紀行文と写真を寄せていただきましたので、下記にその行程とともに紹介致します。
  東北四日間の旅(豆柄、山口、砂川、佐藤、佐藤、岡沢、岡沢)
3,海岸線、延々と続く盛り土の壁とショベルカー、そして行き交うトラック    (2日目・豆柄)
 昨日とは打って変わって、この日からの旅は、しばしば胸が締め付けられるような痛みを伴うものだった。
田老町津波被害 (三陸鉄道宮古駅から北隣が田老駅である)
 宮古のビジネスホテルにあったパンフに興味を持ち、予定にはなかったが、ガイドを頼む。ガイドさんは田老で民宿を経営していた方。いつもと違うゆれに、いち早く裏山に逃げ、津波が来るまで45分もの間、引き返すことをせず命拾いしたとのこと。(引き返した人は、津波にのまれた人も)
 田老町は古くから津波の町として有名で、明治29年(1896年)にはマグニチュード8,5、最大波高15?の津波に襲われ、住民の8割が命を落とし、昭和8年(1933年)にはマグニチュード8,3、最大波高10?の津波に襲われ、住民900人が命を落とすという過酷な歴史を持つ町だ。
 高台移転の話もあったが、第1防潮堤(s8年〜s32年)を有名な技工士を呼んで建設した。「万里の長城」と呼ばれたこの防潮堤を今回の津波は乗りこえた。第2防潮堤(s37年〜s40年)は高潮対策で建造され、中は砂のため今回破壊された。第3防潮堤(s48年〜s53年)は本体が残るが、この防潮堤を乗りこえた津波が、新幹線のようなスピードで田老駅をのみ込んだそう。

つまりこの町は、三つの船頭形の防潮堤に囲まれ、それらに守られた要塞のような町だった。今回181人の犠牲者が出たが、これは他の町に比べると少ないらしい。それは、何よりも防災意識が高く、「地震があったらどこでもいいから高所に逃げ、1時間我慢せ。」と「大海嘯記念」に書かれてあることと「つなみてんでんこ」(てんでん・ばらばらに逃げなさい。)が、常々住民の意識のなかにあったからだと言う。
 ガイドの最後に集会所で、田老観光ホテル(3階まで津波が貫通。震災の爪痕として保存が決定)のオーナーが屋上から撮ったビデオを見せて頂いた。オーナーの「逃げろ。」の声もむなしく、薄黒い津波が住民や消防車をのみ込んで行く様子に言葉を失った。
 北海道に追いやられたアイヌ人の遺跡が近くの高台にあるとか。おそらく津波で高台に移ったのであろうと。人間は大昔から、自然の驚異の前に、大きな犠牲を払い続けてきたんだなと切なくなった。
②すがとよ酒店(石巻市
 今回の旅で私が是非立ち寄りたかった所だ。私が所属している朗読会の先生が実行委員長になって、去年、東北支援「結いのコンサートと朗読の会」を開催した。そのときに、ここの女将のお話があった。ご自分の目の前でご主人を津波にのみ込まれ、義理のご両親も亡くされた体験を話された。 
一ヶ月半後、息子さんとプレハブでお店を再開されたが、夫を亡くしたむなしさは深まるばかり。そんなとき、人の薦めで、第2回「恋文大賞」に応募。大賞を受賞。(作品はネットで。涙、涙です。)
 「すがとよさん」からは、町の復興の困難さをお聞ききした。元は商店街の中にお店があり、そのまとめ役だったのだが、商店街再興の皆の思いがバラバラ。
(届いたお酒に添えられていた。)
「老いては子に従え」の境地で、息子さんの意見に従い、今回組合を脱退したそう。町の再建は、地元が担うのではなく、[UR都市機構]という会社が担うらしい。何百万円かけてリフォームしたビルが取り壊される、望みもしない防波堤に町が囲まれる等、住民の願いが反映された復興にはなっていないそう。市長は「百年後に感謝される。」と言うが、私達は明日の展望も持てないと。重い話だったが、「負けねえぞ、気仙沼」の気迫で少しでもいい方向に町を再建してほしい。 女将さんが書き、復興の象徴になったその「負けねえぞ、気仙沼」のラベルの日本酒(「男山」、辛口)をみんなでたくさん買った。(勿論郵送、美しい字の女将さんのお手紙が添えられていた。) 今回の旅行のお世話をして頂いた旅行社の方にもお土産として差し上げた。いい香りで味もいいとのこと。味わいたい方は、是非ネット調べて注文してね。③大川小学校(釜谷地区)
 被災の様子を小川先生から聞いていたが、実際にこの目で見たいと思い、訪れた。
 ご存じのように、児童の7割74人と12人中11人の教師が犠牲になった所だ。鉄筋コンクリートの2階建てのモダンな学校なのに、渡り廊下は落ち、壁はえぐられオープンスペースの教室は黒板が見え、無残な姿だった。
(大川小学校。町民と一緒の慰霊碑もある。)

 予定時間がオーバーし夕方になってしまったこともあるのだろうけれど、そこだけ空気が凍り付いたようで、しばし呆然、言葉を失った。
 北上川には高い堤防があり(この堤防が視界を遮ったが)、海から4キロ離れている、過去津波の経験がない等、判断を誤る条件はたくさんあったが、裏山がこんなにも近い。5分で完了可能な裏山への避難が・・・。どうして? 住民の多数決で大川小学校の保存が決まったらしい。遺族によって、市と県を相手取って裁判が起こされている。遺族の言葉、「先生がいなかったら、子ども達だけだったら、助かっていた。」元教師の私達にとって、重い言葉だ。
④番外編(今夜の宿泊地石巻グランドホテルへの遠い道のり)
  大川小学校を後に、石巻の中心地に向かってナビの通り走ると、おそらく農道であったらしい道(砂利道でしかも幅がすごく細い)に迷い込んだ。10人乗りのレンタカーは今にも転落しそう。後ろの席は恐怖と不信感で険悪なムードに。運転の邪魔になるだろうに「キャー!怖い!怖い!」の連発。
 しかし岡沢さん、佐藤さんの両夫さんのコンビネーションと岡沢夫さんの腕のよさに感謝。無事、幹線に出て、遅くなったがホテルに到着。居酒屋での遅い夕食にありつけた。(震災後の工事で道は毎日変わる。ナビは追いついていない。次の日も、迷いこむことに)