「美徳」の敬遠②

藤沢周平の作品と人物に触れて…その11 
 いま、藤沢周平とその作品が“志たかく情あつい”歴史・時代作家、作品として新たな注目が集まっています。そうした作品を産み出してきた彼自身のことばを聞けば改めてそのいまの評価と注目が理解できます。いくつかを紹介します。出典は、彼のエッセイ集“ふるさとへ廻る六部は”です。

『ふるさとへ廻る六部(巡礼)は気の弱り』 山形出身の藤沢周平が初めて青森、秋田、岩手へ旅した時の気持ちを自嘲的に表現した古川柳

むろん建前と本音というか、武家のモラルにも裏と表はあったと思う。武家も賄賂を取ったし、殉死にさえ商い腹というものがあった。また、米沢藩は貧しかったので、家中がしきりに内職にはげんだが、その内職も慢性化すると、「表に士を飾れども内はまさしく商売なり」という状況になり、大勢がそうなると、その風潮に加わらずに孤高の貧を守る者は、時勢を知らない偏屈者と逆にあざけられたという。明和年間あたりのことらしい。
 時代がそのへんまで下がると、武家も家を守り暮らしを守るのに精いっぱいだったわけで、武士は喰わねど高楊枝と、武家が表も裏もなく武家らしい規矩を守るのに厳格だったのは、せいぜい元禄以前までという見方が出来るかもしれない。しかし、にもかかわらず全体としての武家の作法は幕末まで生き続け、時おり封建社会を維持するための安全装置のように働いて、そのたびに人が腹を切ったり、切らされたりすることで、封建社会の自壊から救う役割をはたしたようにみえる。
 一方、このような武家の作法、その背景にある武士道といった観念的なモラルを生み出した儒教道徳は、徳川政権下二百数十年の国教的な扱いとその後につづく明治の教育を通じて国民の倫理観の背骨をなすに至った。そしてその中から、無数の、儒教的人格ともいうべき見事な成熟を示す人びとを排出させもしたのである。そういうことの、どこが苦手か。
 ひとつは武士道ということである。私は昭和2年12月生まれで、そういえば同時代の人ならすぐにもわかるように、来年は徴兵検査という年に敗戦を迎えた年代である。近眼ではねられたが、予科練の試験を受けたこともある末期戦中派というわけである。ああいう敗戦があるなどとは夢にも思わず、負けるときは一億玉砕しかないと思っていた。完全な軍国主義者で、そういう自分を疑うすべを知らなかった。
(…中略…)
 私は、当時の一方的な教育と情報、あるいは時代の低音部で鳴り響いていた武士道などといった言葉などに押し流されて、試験を受けたのである。そのことが、戦後、私のプライドにひっかかった。汚い言葉を使えば、人をバカにしやがって、という気持ちである。しかも、私はそのとき、級友をアジって一緒に予科練の試験を受けさせたりしたのだから、ことはプライドの問題では済まない。幸いに、予科練に行った級友は塹壕掘りをやらされただけで帰って来たが、私も加害者だったのである。
その悔いは、30数年たったいまも、私の胸から消えることがない。
(…中略…)
 昭和のあの時代に喧伝された武士道は、本来の武士道にてらせば似て非なるものだったという指摘がある。それなら本来の武士道なら容認していいかというと、私はそこにもまだこだわりがある。