富田千代野さんが急死

 当労協国ツーの富田秀信理事長の奥様 千代野さんが19日夜、急死されました。
 今日22日、京都で「お別れの会」があり、大勢の人たちが見送りました。私は、体調悪く、参列できずに下記のメッセージをおくりました。

千代野さん ありがとうございました
 千代野さん、あまりにあっけなく旅立たれ、驚いています。
私は、千代野さんの新たな20年の生きざましか知りません。この間、あなたやご主人と何度も食事もご一緒させていただきました。京都のご自宅で、七条口でまた八条口で、神戸三宮で元町でも。西宮の私の自宅で同じ誕生日を祝ったこともありましたね。いつも飲むのが好きな彼に付き添って、健啖ぶりを発揮してましたね。
 思えば千代野さんが倒れてはや20年になるのですね。あの日の宵の口、あなたが倒れて入院したが秀信さんが捕まらないとの報せを枚方の職場で受け、残っていた社員で考えられるところに電話で探し回りました。その時、親しくして頂いていたKTさんとも連絡を取りあい、彼女の職場近くで彼が行きそうな店に軒並み足を運んでも手がかりは得られません。
 そして翌日、入院先の病院に直行して、集中治療室に寝かされて「生死の境をさ迷う」あなたに、医者から大きな声で名前を呼んだげてくださいと言われ、彼と一緒に繰り返し呼びかけました。あなたとの初めての出会いで、何か千代野さんと呼ぶのも憚られ、「おくさん」とか「千代野さん」としばらくの間、呼び続けたのをハッキリと思い出します。
 その時、医者の見立ては、かなり厳しいものであったらしくて、その後大勢の親戚や友人を前に、彼が開口一番、「万が一の場合……」と言い出したのです。聞いていた私も、「エッ」とは、おもいましたが、医者の"絶望"に近い見立てからの彼なりの判断だったのでしょう。
そこでどなたか年配のご親戚から「ヒデぼん、千代野は未だ生きてるやないか、何が起きるか分からんから……」との言葉を聞いて、彼も含め一同そうだと意を強くもったのです。結局は、その方のおっしゃったことが現実となったわけです。
 医者の極めて厳しい見立てをされても、いつの頃からか、その健啖ぶりと取り戻したともいうべき自由奔放さが、功を奏したのか、あなたの状態は上向きになっていました。
それは、いかなる状況にあろうとも、「人間の発達」はあるということを、あなたは身を呈して証明されたかに思ったものです。
 その発達をひきだしたのは、医師や介護士、あなたの旧来の友人やホントに多くの方々の力添えがあったからでしょう。もちろん、あなた自身の生き抜く力とそれを献身的に支えてきたご主人のたたかいがあったからとは、誰もが認めています。それだけに、あなたの今後の「発達」がどう進んでいくのか、お二人のたたかいが社会的にどれだけ拡がっていくのかが、日々刻々注目されていたなかでの、突然の訃報。
そのたたかいの一環として、つい先週刊行された「私と介護」はあなたと彼が残した最後の共同作業の成果であり、その頒布拡大は私たちに課せられた仕事でありましょう。
 あなたの驚異的ともいえる「回復」を間近にみていたご主人にとっては、それ自身驚きであると共に、大きく確かな生き甲斐を与えていたであろうことは、間違いないでしょう。
 職場が創業50周年を迎えた2007年、記念誌に彼が書いたことばが忘れられません。「千代野より先に死ぬことはできない。1日でも後でないと…」と。ここには、彼なりの厳しい決意がみてとれます。そんなご主人との夫婦としての絆は、素晴らしい充実したものであったでしょう。
 千代野さんの命は尽きましたが、あなたの明るい生き様、生きる力とたたかいは、これまで、あなたを支えてきた数知れない人たち、そしてあなた達から勇気をもらった多くの知らない人たちの胸の中でいつまでも生き続けるはずです。
 伴侶を無くした彼が、再び生きる力を見いだしていくと確信しています。千代野さん、できることならもう一度一緒に食事をさせていただきたかった。    安らかに
              2016年12月21日
                労働者協同組合 国際ツーリストビューロー
                             理事 松岡 武弘

モトコー問題佳境に

当労協国ツー組合員佐藤 明吉さんのFBからシェアさせていただきました。

— 先月の説明会から、新たな動きがでています。
それは、振興組合がアンケートをとって、これを元にリニューアル案の提示をし、来年振興組合の臨時総会を開催、そこで結論を出そうというものです。
しかし、これには重大な疑義があります。まず、振興組合員は基本高架の浜側のしかも家主の組合であり、店子や山側の家主は組合員ではありません。したがって高架下関係者の総意が反映されるものではありません。
したがって新たな「モトコー問題を考える協議会」(仮称)などの組織を作り、そこで協議すべきものです。構成員はすべての利害関係者であり、役員なども民主的に決められなければなりません。当然新たな規約を総会で確認し、今後のあり方を議論すべきです。こうした手続きをとってこその総意だといえるでしょう。
一部の関係者の拙速な対応はさらなる矛盾を生み出すだけです。
民主主義には手間も時間もかかるのです。以上を理解いただき市民の皆さんのさらなる応援よろしくお願いします。

劇場型の“日ロ外交交渉”

 モーニングショーをよくみますが、あの優秀な安倍番とされる山口某氏は、日頃の安倍氏の饗応に恥ずかしくもアキレるほど見事に応えてました。
 成果がないのを見越して、「僅かなことでもいいから『合意』を取り付ければ100点満点の外交」ですよなんてことをたしか昨日の番組でしたか言ってました。その前段で、会場の大谷山荘には安倍氏に2回ほど「連れていってもらった」など、いかに親密な関係かをひけらかしていました。聴いてビックリ!報道に携わる者として、いかに『ミットもない』か、おわかりでない。
 ちなみに、私など、仕事がら大谷山荘には、少なくとも5回以上は行きましたがねぇ……。私のこの旅館への評価は悪くなかっただけに、この度安倍政権と大手メディアの合作による国民騙しの大舞台に使われたことは残念ですね。一躍、日本とロシアで名前がしれわたった大谷山荘はどう思ってるかは知りませんが……。
 まあ、"大山鳴動鼠一匹"も出ずして、出たのは、メディアへの"全面協力感謝状"とも言うべき1枚のプレス向け紙切れと3,000億の「経済援助」。その紙切れを『共同声明』と報道してもOKのお墨付きまでもらって喜んでいる大手メディアへの批判を強めよう。(T.MATSUOKA)

中国西安たっぷり満喫5日間の旅 

 国際ツーリストビューロー  宋 敏
 10月18日から10月22日まで、「中国西安たっぷり満喫5日間の旅」に行ってきました。
かつて長安と呼ばれた古都西安は、陝西省省都であり、関中平原の中部に位置し、北は渭河、南は秦嶺山脈に臨む、西安市の人口は約800万人です。紀元前11世紀から紀元後10世紀初頭までおよそ2000年の間、前漢や唐など13もの王朝の都が置かれ、秦の始皇帝前漢武帝、唐の太宗、則天武后、唐の玄宗楊貴妃など、歴史上のヒーローやヒーローインなど多くの物語を生み出ました。
また、シルクロードの起点としても有名です。前漢の外交使節として派遣された張騫やインドまで仏教の経典を求める旅に出た玄奘三蔵法師)など、旅人たちはこの地を出発しこの地に戻ってきました。
更に、日本と西安との交流も古い。隋唐時代には日本から遣隋使や遣唐使は派遣され、日本の文化にも大きな影響を及ぼしました。
  1日目 10月18日(火) 
関西国際空港より中国東方航空2060便(10:20発)で(青島経由)西安咸陽国際空港へ。約5時間30分の空旅西安咸陽国際空港に到着後、現地ガイドが迎えに来ており、専用車で西安市内へ移動。
西安市内に向かう途中、前漢第四代景帝(劉启前157年〜全141年)とその皇后を葬った合葬墓である『漢陽陵博物館』を見学しました。陽陵は約20年間の発掘で、20㎢の範囲から200余りの副葬坑と5000余りの副葬墓が見つかり、その中から武士や女官などの陶製品が発見されました。陽陵の見学が終わったら、綺麗な夕陽に見送られながら私たちは西安市内へ向かいました。ラッシュアワーで大変渋滞していましたが、無事に夕食会場に着きました。
美味しい西安料理を堪能した後、音楽とともにライトアップされた『大雁塔広場』を鑑賞しました。とても幻想的できれいでした。忙しい1日でしたので、早めにホテルへ帰ることにしました。
2日目 10月19日(水)
今日はお墓巡りです。
まず、西安郊外にある唐の第3代皇帝高宗と、中国唯一の女帝となった則天武后(624年〜705年)の合葬墓『乾陵』へ。
乾陵は、神道(墓前にいたる道)に通じる18の平台(踊り場)を持つ526段の石段や神道の石柱である華表、伝説上の動物翼馬(ペガサス)、馬と馬を引く人の石像、『述聖記碑』や『無字碑』、首を切り落とされた『六十一蕃臣』などがあり、広大な規模でした。
そして、乾陵の主要な副葬墓のひとつである高宗と則天武后の孫娘で中宗の娘である『永泰公主墓』へ。(永泰公主は17歳の時則天武后の情夫に対する批判を口にし、夫とともに殺されてしまった)陵墓の参道や四方の壁には壁画が描かれており、破損したり色あせたりしているが、保存状態はとてもよかった。昼食は近くのレストランにて西安料理を頂きました。
 午後、後漢桓帝から霊帝にかけての時代に創建され、約1800年以上の歴史をもつ古刹『法門寺』へ。約2000年前、インドのアショカ王が仏法を広めるため、仏舎利釈迦牟尼の遺骨)を各地に送り、塔を建てて安置したという言い伝えがあり、法門寺はその場所のひとつである。創建当時は阿育王寺と呼ばれていました。
証明されたのが1987年、明代に建てられた法門寺を再建する際、1100年余り密閉されていた地下宮殿が見つかり、地下室部分や指の仏舎利などの宝物が発見され、伝説とされていた話が実話だった。仏舎利を納めていた八重になった小さい宝箱も展示されており、世界的に有名な仏舎利を見ることができ、本当によかったです。
次に見学したのは、前漢の第7代皇帝武帝の陵墓である『茂陵』へ、(茂陵の高さ46.5m、東西39.5m、基底部の四辺が240mもある)。まことに大規模でした。その隣には、匈奴征伐で活躍した霍去病のお墓があり、現在は茂陵博物館となっているが、規模の大きい石刻群と4000点以上の文化財を収蔵されていました。
お墓巡りの後、西安市内へ戻り、火鍋料理を美味しく頂きました。
まるでタイムスリップしたような1日でした。

3日目 10月20日(木)
 朝陽を見ながら、美味しい朝食を頂いた後、西安観光の最大ハイライトである1987年世界遺産に登録された『秦始皇兵馬俑博物館』と『秦始皇帝遺址公園』へ。
 先ず、シャトルバスで『秦始皇帝遺址公園』へ。秦始皇帝遺址公園には中国最初の皇帝である秦の始皇帝(秦始皇帝は13歳で即位し、およそ10年間で中国を統一し、中央集権体制や全国の法律、文字、度量衡を統一したりするなど中国に大きな影響を及ぼした)の陵墓があり、皇帝即位後から埋葬地である驪山に陵墓用の穴を掘り始め、天下統一後は70万人の労力を動員して王墓の造営を行ったといわれています。始皇帝陵を見学してから、シャトルバスで戻り、兵馬俑見学へ。
 『秦始皇兵馬俑博物館』は1号坑、2号坑、3号坑、文物陳列庁がある。まず、文物(秦銅車馬)陳列館へ。銅車馬の展示室は暗くて、フラッシュが途切れることなく焚かれて大変でした。銅馬車は出土した順に、一号車、二号車と命名され、4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできている。1号銅車馬は、立車といい、車体の右には盾と鞭、前には弩と矢が掛けられており、車上には1本の傘が立てられ、傘の下には高さ91センチの銅御者1体が手綱を引いて立った。2号銅車馬は、安車または轀輬車といい、正座した御者1体が手綱を引いた。車体のドーム式の屋根と四囲の壁には変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれていました。
 それではいよいよ1号坑へ。1号坑は総面積約1万4200?の中には2000体の武装した兵馬俑が38列にわたって並び、見学者も本当に多く、写真を撮るのも精いっぱいだったが、時間をかけて前列に並び見学しました。真下にある兵馬俑は本当に圧巻的でした。
 2号坑は1号坑の北側20mの地点にある総面積は約6000?の坑道。ここの兵馬俑は歩兵隊や戦車隊など構成され、3号坑は1号坑西端の北25mの地点にあり、総面積は約520?と最も小さく、兵馬俑の最高指揮部隊に当たると考えられる場所だそうです。兵馬俑坑では、現在までに約8000体の俑が確認されていますが、兵士像は平均身長178?と等身大であるうえ、顔の表情も一体ずつ微妙に違います。全体規模は2万m2余におよぶ、極めて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、みんな東を向いていることや製造技術のすばらしさを知ることができました。歴史を感じま す!
 『秦始皇兵馬俑博物館』の中にあるレストランにて昼食『西安名物刀削面』を頂いた後、ザクロジュースを飲みながら(臨潼区兵馬俑周辺はザクロの産地である)兵馬俑を後にしました。
 昼食後、秦始皇兵馬俑博物館の近くにある楊貴妃が温泉浴したところ『華清池』を見学した。『華清池』は唐の天宝年間に作られた華清宮で温泉は池ほどの大きさになり、宮廷内に設けられ、当時の皇帝である玄宗の避暑地であり、玄宗楊貴妃のロマンスの舞台でも有名です。また、1936年の西安事件で国民党の蒋介石が滞在していたことでも知られています。敷地内には温泉が設けられていて、時間の関係で手だけ体験させていただいた後、西安市内へ。
 西安古城のシンボルである『西安城壁』へ。西安城壁の西門(西方のシルクロードを望む最大の城門でここから多くの人たちが西をめざして出発しました)から上ると市内を見渡すことができ、シルクロードの資料なども展示されておりました。夜は西安名物「餃子」を堪能した後、華麗な唐朝の歌や踊りのショーを鑑賞しました。

4日目 10月21日(金)
 朝食後、三蔵法師が翻訳に取り込んだ場所である『大雁塔(慈恩寺)』へ。慈恩寺は唐の第3代皇帝高宗が母である文徳皇后を供養するために建立した仏教寺院です。院内に立つ四角7層、高さ64mの塔が大雁塔であります。大雁塔は玄奘がインドから持ち帰った大量サンスクリット語経典や仏像などを保存するため建立されたそうです。大雁塔を見学したあと、3000点もの逸品が展示されている『陝西省歴史博物館』へ。
 伝統的宮殿様式の外観をもつ『陝西省歴史博物館』は中国で最も施設が整っている博物館のひとつである。博物館は広くてゆっくり見ようと思ったら1日でも足りません。兵馬俑則天武后の母である陽氏の陵墓から出土した巨大な獅子像など見学しました。
 昼食は西安名物である『羊肉泡馍(ヤンルーポーモー)』を頂いた後、町の中心に鎮座する重要文化財である「鐘楼」や小物を扱う「化覚巷」、イスラム教徒である回族の文化を見ることができる「回民街」を散策し、太鼓の音で時を告げていた『鼓楼』に上り、西安市内を見渡した後、日本と中国の交流の古さを物語る輿慶宮公園にある『阿倍仲麻呂記念碑』を散策しました。
夜は最後の晩餐ですが、西安名物の『西安ダック』を堪能した後、翌日出発準備のため、早めにホテルへ帰りました。
  
5日目 10月22日(土)
 今日は帰国の日です。モーニングコールは4時半、5時半出発。西安咸陽国際空港中国東方航空521便にて上海浦東空港で乗り継ぎ、帰国の途へ。
 今までずっと順調な旅でしたが、最後の段階の上海浦東空港で飛行機が約6時間遅れましたが、何とか無事に帰国することができ参加の皆様のご支援とご協力に感謝致します。
 今回の西安の旅は、中国の歴史や文化、食などについて新たな視点から本当に色々と勉強になりました。これからも中国と日本の架け橋になるためにもっと勉強しなければならないと思います。

日本遺産「出雲國たたら風土記」−島根県安来・雲南・奥出雲 連綿と続く地域の営み

業界紙トラベルニュースより
島根で紡がれるたたら製鉄の物語
たたら製鉄と地域の風土のストーリー
 島根県安来市、奥出雲町、雲南市が共同で文化庁に申請していた「出雲國たたら風土記 鉄づくり千年が生んだ物語」が2016年4月25日、日本遺産に認定された。いにしえの製鉄技術が今再び脚光を浴びているのは、この地域で今もなお、たたらが育んだ固有の文化が連綿と続いているからにほかならない。景観、食、暮らし…現代の私たちがこの地域を訪れて、見て、食べて、体験するものごとと、たたらとの関わりを知れば、安来市と奥出雲町、雲南市の旅はぐっと深く味わい深いものになる。

たたら製鉄」の炎は今も舞い上がり続ける。(日刀保たたら。写真はイメージで通常見学などはできない)
 たたら製鉄は1400年前以上から続く、日本古来の製鉄技術。その技術には自然環境や文化、人々の暮らしなど多くのものが関わり成り立ってきた。現在は、奥出雲町の日刀保たたらで世界唯一の、たたらの炎が燃え続けているだけだが、2市1町には地域の営みとして「たたら文化」が息づく。
 この地域の特産品の一つ「仁多米」。田んぼの畔もきれいに刈り込まれた美しい棚田で作られる全国的なブランド米だ。この棚田、もともとは山の斜面に水を流して削り砂鉄を得た鉄穴(かんな)流しの名残で、言ってみれば山を切り崩した破壊の現場。映画「もののけ姫」では、自然を壊し山の神々の怒りを買うのだが、ここでは棚田として後世の財産として残し、砂鉄を採取するための水路も農業用水として利用、人と自然が共存する場として再生されている。

山を切り崩し砂鉄を採った跡地は美しい棚田として再生されている 鉄の集積地だった港町の安来では、人々が交流する拠点となり、各地で伝承されていた民謡の影響を受け、どじょう掬いで知られる「安来節」が生まれた。
 こうして長年に渡り紡がれてきた2市1町の物語。地元の人たちが誇る「自然と人間の共生、農鉱一体となった産業の構造が、この地域の品格と品性を生んだその価値」をこの地域を訪れた多くの人に感じていただきたい。

今年4月の日本遺産認定で、雲南市の菅谷たたら山内でくす玉を割る3市町の首長
「たたら」とは
 たたらとは、古事記日本書紀にもその名が記載されている古来より続く日本の製鉄技術。粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を交互に入れる。ふいごで風を送り木炭を1400度以上の高温に燃焼させることで、自然界では酸化鉄として存在している砂鉄を還元して鉄を生産していく。3昼夜かけて行われる1回の操業に必要な木炭は12トン、砂鉄は10トン。そうして約2.5トンの譆(けら)ができ、さらには日本刀などに使われる高品質の玉鋼(たまはがね)が採れる。
 たたら製鉄は中国地方一帯で盛んで、島根県東部では約1400年前から行われてきた。奥出雲地域は、良質な砂鉄と木炭を得るための森林が広大であったため、鎌倉時代の前後には各地から製鉄技術者が集まり、江戸後期には日本屈指の生産地となった。明治時代に西洋から生産性の高い製鉄技術が伝わると衰退、大正末期にたたら製鉄は終焉を迎えた。
文化庁認定 日本遺産
 地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」に認定するとともに、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内外に戦略的に発信することにより、地域の活性化を図ることを目的とした制度。

"AKIBA"など34地域を選定 観光庁の観光地魅力創造事業


  観光庁は7月20日、今年度の「地域資源を活用した観光地魅力創造事業」の対象となる34地域を選定した。
 同事業は、訪日外国人客の増加を見据え、世界に通用する地域の観光資源の磨き上げを図るため、観光地域づくりと、その中心となる組織づくりを一体で支援するもの。各地域では市町村や観光協会、交通事業者などで協議会を組織し、滞在コンテンツの充実・強化や来訪需要の喚起、来訪者の利便性の向上、外国人受入環境整備に取り組んでいく。初年度の昨年は31地域が選定されていた。
 選定された地域は、AKIBA観光協議会(東京都千代田区)、阿智村版DMO推進協議会(長野県)、ALL白浜ここでしかできない旅実行委員会(和歌山県)、松山はいく国際化推進委員会(愛媛県)など。今年は複数の自治体で構成する地域はなかった。
 観光庁では選定された地域に対して、事業の必要経費の総額の2分の1以内の金額を支援。
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 このような“地方間の競争”を煽るようなやり方が、観光分野にふさわしいだろうか……?
 外国の方々を日本に来て頂けるのは喜ばしいことではあるけれど、何故そのために「世界に「通用する観光資源の磨き上げ」が必要なのだろう。“ありのままの中の良さ”をみて頂くのが本来ではないのか。こういうやり方では、中央資本関連などの大企業による事実上の“地方支配”がすすみ、「地方創生」や“釣り合いの取れた国土の発展”に逆行することになるのでは…危惧がある。

【ポケモンGO狂想曲】

失礼ながら、も少し現実世界を主体的に、力を合わせて生きましょうよ。こんな仮想の話しに踊らされて、どうする。人間って、生きるって、もっと楽しいことを探そう。
下記は、ブログ『お役立ち情報の杜』からシェアさせていただきました。
 Steve Cuttsというイラストレーターは、ロンドンを中心に活動していますが、現代社会の暗部を印象的な絵で表現しています。
 表現するジャンルは、人間の強欲さ、環境破壊、ジャンクフードなど、様々な分野に及びます。具体的には、下記リンク先をご覧ください。
This Artwork Is Probably The Most Accurate (And Scary) Portrayal Of Modern Life We’ve Ever Seen
 たくさんの絵の中でも特に印象に残ったのがこれです。

絵(スマートフォンの奴隷と化した人たち)
 まるで、ゾンビのようですね。スマートフォン中毒になった現代人を誇張して表現しています。
・思考力や感情を奪われている。
・主体性が無く、惰性で動いている。
人間性を失っている。・・・・
 コミュニケーション能力や連帯は期待できそうにありませんね。権力層にとっては操りやすいでしょう。
 最近、日本を含めて世界中で、似たような情景を目にするようになりました。

ポケモンGOを楽しむ人たち:新宿御苑
 ポケモンというキャラクターやゲームソフト自体に罪は無いでしょう。スマートフォンという電子機器の存在自体を否定する気もありません。問題は、それらを使う人間の側にあると思います。

 法律を守り、事故を起こさず、他人に迷惑をかけないならば、非難されるべきではないかもしれません。ポケモンGOをやっている人は、ある種の一体感を味わえて幸せなのかもしれません。

 しかし、ある種の違和感や不健全さを感じずにはいられません。仮想現実の世界との付き合いは程ほどにして、現実の人間や自然との交流を重視したいものです。